【 必然だった? 】関ヶ原の戦いで東軍に寝返った小早川秀秋

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【 必然だった? 】関ヶ原の戦いで東軍に寝返った小早川秀秋

慶長5(1600)年の関ヶ原戦いで、戦の勝敗を分けた要因のひとつが、西軍の小早川秀秋の東軍への寝返りだったと言われています。
この一事で秀秋は後世、裏切り者として蔑まれます。しかし、本当にそうなのでしょうか。秀秋の生涯を見ると、東軍に味方したのは必然であったように感じられるのです。

豊臣秀吉の養子としての厚遇から一転

秀秋は、天正10(1582)年、秀吉の妻である寧々の兄・木下家定の五男として生まれ、天正13(1585)年に秀吉の養子として迎えられました。
天正17(1589)年には、丹波亀山城10万石の城主に封じられ、天正19(1591)年には、中納言の位を授かります。秀吉の後継者は、この段階では豊臣秀次でしたが、秀秋は2番手として、秀吉から厚遇されていたのです。

しかし文禄2(1593)年、秀吉に実子・秀頼が生まれると、秀秋は急に『厄介者』となったのです。
文禄3(1594)年、秀秋は小早川家に養子として送られました。小早川家では秀秋は外から来た『侵略者』です。豊臣に家を乗っ取られると危惧する家臣たちからは冷たい目で見られます。12歳の少年にとって、辛かったはずです。しかし、秀秋への仕打ちはこれで終わりませんでした。

文禄4(1595)年、秀次事件で連座し、亀山城を没収されてしまいます。
この後、養父・小早川隆景が隠居し、その領地・筑前を継承したのですが、秀秋にとっては秀吉から譲り受けた物をすべて手放した格好になりました。

小早川家当主として

慶長2(1597)年、秀吉の朝鮮出兵で秀秋も朝鮮半島に渡ります。秀秋にとって初陣であり、功を立てねば侮られます。
この戦では、蔚山城に籠る加藤清正を救うため、秀秋らは明軍に攻めかかります。秀秋は、軍の先頭に立って明軍に斬り込んでいきました。秀吉の一族というだけで大名になったのではないと示したかったのでしょう。秀秋は華々しく戦いました。

しかし、この時の振る舞いを「大将の器に非ず」と秀吉に咎められ、越前北ノ庄15万石に減封されてしまいます。このせいで、秀秋は信頼する付家老を筆頭に家臣を何人も解雇せざるを得なくなります。しかも、秀吉は筑前の領地を三成に与えようとするのです。秀秋が加藤清正や福島正則らと同じく、三成に悪感情を抱くのも自然なことでしょう。

東軍・家康に味方した秀秋の思い

秀吉死後、家康が「蔚山城の諸将に非はなかった」として、秀吉の仕置きを否定し、秀秋を筑前に戻します。これで、秀秋は家康に接近します。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いに際して、秀秋は当初西軍に味方しました。西軍の名目上の総大将は毛利輝元で、小早川家は毛利家を支える両川体制の一角です。小早川家の歴代の家臣もいる中で、いきなり東軍にはつけません。ただ、決戦前に心底を家康に打ち明け、その証として、秀秋は松尾山を守っていた西軍の兵を押しのけて陣取りました。
松尾山は当時城があり、秀秋が寝返れば、大垣城が危なくなります。ここに、三成は籠城策を捨て野戦を決意し、関ヶ原に進出したのです。

こうして9月15日に始まった関ヶ原の戦いは、最終的に松尾山の秀秋が寝返ったため乱戦にピリオドが打たれ、東軍が勝利しました。
秀秋のお膳立てと裏切りが勝負を決したのです。

松尾山にある小早川秀秋陣所跡
松尾山にある小早川秀秋陣所跡

秀吉に人生を振り回された秀秋にとっては、自分を認めてくれた家康のために働くことこそ誉だと思っても不思議ではありません。
秀秋の裏切りは、秀吉との決別であったのではないでしょうか。

(黒武者 因幡)

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