【幕末の勤王家】西郷隆盛が師と仰いだ水戸藩士・藤田東湖とは?

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江戸末期、薩摩藩や長州藩に先駆け、尊王攘夷運動の先頭に立っていた水戸藩。そして、幕末の勤王志士たちに直接的な影響を与えたのが水戸藩士・藤田東湖です。あの西郷隆盛が心の師にしたともいう藤田東湖とはどんな人物だったのか、西郷との交流を通してご紹介します。

藤田東湖。

水戸藩主・徳川斉昭の側近として活躍

文化3年(1806)3月16日に生まれた東湖は、18歳で家督を継ぐと、はじめは水戸藩の史局である彰考館に務めます。その後、徳川斉昭の藩主就任の際には、斉昭を擁立する改革派の先頭に立って活躍し、9代藩主への襲封を成功させます。

水戸藩主・徳川斉昭。

以来、斉昭の側近となり、35歳のとき側用人の重職に抜擢されると、その政治手腕は他藩にも聞こえるようになりました。特に嘉永6年(1853)、斉昭が幕政海防参与に任ぜられた際には、攘夷の政策立案に大きく貢献したことから、全国の志士たちから絶大な信頼を集めるようになります。

水戸藩の藩校・弘道館(茨城県水戸市)。教育方針が書かれた『弘道館記』は、東湖が起草したもの。
(写真提供:茨城県)

当時は、各藩の志ある若者の多くが東湖のもとを訪れ、その薫陶を受けましたが、西郷隆盛もそのひとりでした。

「唯畏る可き者は東湖一人のみ」

西郷が東湖を知ることになったのは、安政元年(1854)年3月、江戸藩邸に勤務するようになったころです。西郷の友人で、薩摩藩主・島津斉彬の茶坊主として機密の用を務めていた樺山三円より、東湖が大人物であることを聞いたことから、東湖に会うことを切望するようになります。

西郷隆盛。

当時、水戸藩の上屋敷は、現在の東京・小石川後楽園周辺に置かれていましたが、東湖の住まいもここにありました。樺山に連れられ、小石川を訪ねた西郷は、東湖の学識や胆力、さらに人柄や態度に大きな感銘を受けたと伝わります。

このとき東湖は西郷の印象について、『南洲手抄言志録』に「東湖は南洲(西郷の号)の朴率にして飾るところなきを見て酷だ之を愛す」とあるように、飾り気のない人柄をとても気に入ったようです。また、西郷の人物の大きさを見抜き、「他日我が志を継ぐ者は濁比の少年子のみと(いつの日か自分の志を継ぐのは、ひとりこの若者(西郷)だけだろう)」という言葉を残したといいます。

対して西郷は、東湖の印象について「盗賊の親分の様」と樺山に語っていますが、叔父に宛てた手紙には「天下眞に畏る可き者なし、唯畏る可き者は東湖一人のみ」と記し、東湖を絶賛しています。

『西郷南洲遺訓-附・手抄言志録及遺文』
山田済斎編集
(岩波文庫) 

実際、この面会以来、西郷は東湖に傾倒するようになり、その邸宅にくり返し出入りするようになります。さらに東湖を通じて、水戸藩の名士と呼ばれた勤王志士たちとも盛んに交流するようになり、その後の西郷の人物形成に大きな影響を与えることとなりました。

安政の大地震の悲劇

しかし、安政2年(1855)10月2日に発生した安政の大地震を最後に、東湖と西郷の交流は途絶えます。マグニチュード7とも伝わる大地震が発生したとき、屋敷内に取り残された母親を助けようとした東湖は、落下してきた梁によって圧死したといわれています。

「安政の大地震」が描かれた絵図。

東湖の死は、西郷にとって大きな衝撃でした。当時鹿児島に戻っていた樺山に、同年10月4日付けで送った手紙からも、「その死については何も話す気になれない、自分の気持ちを察して欲しい」と、悲しみと無力感に打ちひしがれる西郷の様子がうかがい知れます。

後年、尊敬する人物を問われた西郷は「我、先輩にては藤田先生、同輩にては橋本左内を推す」と語ったように、東湖を心の師として、終生尊敬しました。そして東湖の死後、西郷はその志を受け継ぎ、明治維新の扉を力強く押しひらいていくことになります。

(スノハラケンジ)

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