現在では男女平等に教育が受けられる日本ですが、昔は女性が教育を受けるのは難しいことでした。そんな女子教育に生涯をかけて貢献し、歴史に名を刻んだのが大山巌の妻・山川捨松(すてまつ)です。愛国婦人会理事なども務めた捨松はどのような人物だったのでしょうか。
今回は、山川捨松の生い立ちから大山巌との結婚、また彼女が注力した女子教育についてご紹介します。
山川捨松の生い立ち
捨松は安政7年(1860)、会津藩家老・山川尚江重固(なおえしげかた)の末娘として会津若松で誕生しました。当時の名前は山川さきという名前で、生まれたときすでに父親が亡くなっていました。そのため祖父や長兄の山川大蔵が父親代わりになったといわれています。そんな捨松の人生が一変したきっかけが「会津戦争」でした。
幼少期から留学まで
家族と共に籠城していた捨松は、炊き出しや傷病人の手当てのほか、会津若松城に撃ち込まれた不発弾の爆発を防ぐ危険作業も手伝っていました。このとき大砲を撃ち込んだ新政府軍の砲兵隊長が、後の夫となる薩摩藩士・大山弥助(大山巌)だったことは数奇な運命といえるでしょう。抵抗むなしく降伏した会津藩は斗南への移動を余儀なくされましたが、この新天地での生活は寒さと飢えで死者が出るなど過酷なものでした。そこで捨松は函館の沢辺琢磨のもとに里子に出され、その紹介でフランス人家庭に引き取られることになったのです。
明治4年(1871)、北海道開拓の技術や知識を学ぶため男女数人がアメリカに10年の官費留学をすることになり、捨松の兄・山川健次郎が選ばれます。ところが、女性応募者がいなかったため、山川家はフランス人家庭で西洋式の生活に慣れていた捨松を応募させました。すると捨松は見事合格、女子留学生として見知らぬ異国の地で過ごすことが決定したのです。捨松という名前はこのとき母親がつけたもので、「一度捨てたと思って帰国を待つのみ」という気持ちが込められているのだとか。ちなみに大山巌もこの頃、スイスに留学しています。
帰国した彼女を待っていた日本とは
捨松はアメリカで優秀な成績を修めて卒業生総代の一人に選ばれ、地元の新聞に掲載されるなど、目覚ましい活躍をしていました。帰国命令に対しては滞在延長を申請し、卒業後は看護師学校に通って上級看護師の免許も取得しています。
そんな捨松が帰国したのは出発から11年後の明治15年(1882)暮れのことでした。日本での赤十字社設立や女子教育の発展を夢見て帰国した捨松でしたが、当時の日本にはまだ捨松のようなアメリカ式の考えや所作を受け入れる土壌がなく、「アメリカ娘」と陰口をたたかれてしまいます。縁談の申し出もありましたがこれを断った捨松は、アメリカの友人アリス・ベーコンに愚痴の手紙を送っています。当時の日本からすると捨松は先進的過ぎたのかもしれませんね。
大山巌との恋愛結婚
婚期を逃したかのように思われた捨松ですが、ついに彼女にもそのときが訪れます。一筋縄ではいきませんでしたが、捨松にとって運命の出会いと呼んでも良いものでした。
妻を亡くし、失意にあった大山巌
その当時、後に夫となる大山巌は参議陸軍卿・伯爵になっていました。大山は吉井友実の娘・沢子と結婚し3人の娘をもうけましたが、妻が亡くなってしまい、大山を可愛がっていた吉井が後添いの女性を探し始めます。そこで候補に挙がったのが捨松だったのです。当時の外交では夫人同伴の舞踏会が多く、大山同様にドイツ語やフランス語が堪能だった捨松は社交の場にも最適な存在でした。
初デートから3カ月のスピード婚!
西洋かぶれだった大山は、捨松の洗練された美しさに触れ、一気に恋に落ちました。ところが、吉井を通して申し出た縁談は、薩摩人との縁談は受けられないとの理由で即座に断られてしまいます。諦めきれなかった大山は、親戚である西郷家を頼り、従弟である西郷従道を山川家に派遣して連日説得させました。山川家から「うちは賊軍の家臣だから無理だ」と言われれば、「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内だから」と返す従道の説得は効果があったようで、最後は本人の意思に従うというところに落ち着きます。
こうして、ようやく初デートに至った二人ですが、その距離を縮めたのはなんと英語での会話でした。これがきっかけとなり、捨松は3カ月で結婚を決意します。明治16年(1883)11月、二人はついに結婚。鹿鳴館で行われた披露宴には1000人以上の招待客が集まるほどでしたが、捨松はそんな中でも気さくに会話を楽しんでいたようです。
女子教育に力を入れた捨松
大山と結婚した捨松は、日本の女子教育の発展という夢を持っていました。その熱は冷めることなく、生涯にわたって奔走することとなります。
華族女学校の設立に携わる
明治17年(1884)、伊藤博文から依頼を受けた捨松は、下田歌子と共に現・学習院の前身となる「華族女学校」の設立準備委員になります。捨松はアメリカで共に学んだ津田梅子やアリス・ベーコンを教師として招くなどしましたが、いざ出来上がってみると、儒教的な道徳観に則った古めかしい教育が行われました。捨松がこれに失望したのは言うまでもありません。
女子英学塾を支援する
明治33年(1900)、津田梅子が現・津田塾大学の前身となる「女子英学塾」を設立すると、捨松は全面的な支援を行いました。教育方針の関係からボランティアとして支援していた捨松ですが、後には顧問や理事、同窓会長などを務めるようになります。津田の「女子英学塾」は民間の学校でしたが、理想とする女子教育施設を作れたことやパトロンがいなかったことを考えると、かなりの成功といえるでしょう。その成功の一端を担ったのが捨松でした。
幸せな家庭を築いた大山巌と捨松
いち早く海外に触れ、日本の女子教育のために奔走した捨松。彼女は大山との間に2男1女をもうけ、前妻の娘3人も合わせ賑やかな大家族の中で暮らしました。大山とはおしどり夫婦としても有名だったようです。紆余曲折あった捨松ですが、その結婚生活はとても幸せなものだったのですね。
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