【 素破が死ぬのは信用を失った時 】 甲州忍者として主君に仕えた出浦昌相こと盛清

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【 素破が死ぬのは信用を失った時 】 甲州忍者として主君に仕えた出浦昌相こと盛清

「真田丸」で寺島進さんが演じる出浦昌相、本当にカッコイイですよね。全然笑わないところがまた素敵です。
さて、その出浦ですが、真田の忍びだったということ以外の人生はどんなものだったのでしょうか。大河ドラマで描かれる以外の出浦について、ご紹介します。

出浦盛清とは

「寺島進さんが演じる出浦昌相(盛清)」
「寺島進さんが演じる出浦昌相(盛清)」

出浦昌相は、歴史上では出浦盛清と呼ばれています。なので、今回は盛清で説明していきます。
天文15(1546)年、北信濃に生まれました。父は、村上氏一族の出浦清種とされています。

成長してからは村上氏の当主・村上義清に仕えますが、義清が武田信玄に敗れると今度は信玄に仕えるようになります。ここで甲州透破(透破=すっぱ。忍びのこと)を率いる存在になりました。
武田氏が滅亡するまで仕えますが、その後は織田信長の家臣で森蘭丸の兄・森長可に仕え、本能寺の変により長可が撤退すると、ようやく真田昌幸・信幸父子に仕えることとなりました。

昌幸の下では吾妻奉行を拝命し、上平城主、岩櫃城代を務めています。
そしてここでは吾妻忍び衆という集団を統率しました。豊臣秀吉による小田原征伐の時には、忍城攻めで活躍したという記録が伝わっています。

やがて真田家が松代藩主となると、ここでも忍者の頭領を務めたそうです。盛清は元和9(1623)年に亡くなりましたが、その息子は家老にまで出世しました。

「素破が死ぬのは信用を失った時」、一度従えば尽くします

「盛清が忠節を尽くした森長可」
「盛清が忠節を尽くした森長可」

ここまでの盛清の経歴を見ると、主君をコロコロ変えているように見えるかもしれません。
しかし、仕えた主君はみな強く有能で、その時に勢いのあった人物です。盛清には戦国武将として状況と相手の力量を見極める力があったのでしょう。
また、仕えた相手にはとことん従っています。武田家は滅亡まで、村上義清と森長可は領地からの撤退まで一貫して付いて行っているのです。それは真田家に対してもそうですね。
「真田丸」での出浦昌相が「素破が死ぬのは信用を失った時」と発言していますが、その姿勢がここにも表れているように思います。

森長可に仕えた時は、本能寺の変が起きたために海津城から撤退しなければならなくなった長可を最後まで助けています。他の信濃国衆はみな長可を裏切ったのですが、盛清は違いました。
長可はこれに深く感謝し、別れの際に盛清に脇差を与えたそうです。

盛清と甲州忍者の関係

武田信玄は、「三ツ者」という隠密の者たちを組織していました。
彼らを全国へ派遣して情報収集や諜報活動をさせ、そこで得た情報を合戦に利用し、勝ち進んでいったのです。他国の内情や城の造りはもちろん、時には城主の趣味に至るまでこっそりと調べていました。

武田信玄(晴信)像 wikipediaより
「三ツ者を駆使した武田信玄」

こうした諜報活動をする三ツ者のトップにいたのが、当時信玄に仕えた盛清だったのです。
つまり、武田信玄の強さの裏には、盛清や甲州の忍びたちの存在があったというわけですね。最盛期の三ツ者は200人を超えていたそうですよ。
このとき名を挙げたからこそ、盛清は真田家で吾妻衆を率いて活躍できたのです。甲州忍者が盛清に付いてそのまま流れて行ったかもしれませんね。

出浦盛清が表立って活躍した場面は少ないようですが、武田家や真田家の裏で動いていたことは確実ではないかと思います。貢献度で言ったら相当のものではないでしょうか。
真田十勇士の霧隠才蔵のモデルにもなったという盛清は、義を重んじ陰で主を支える、実に日本人好みのカッコいい男だったのです。寺島さんの演技でさらに素敵になりましたね!

(xiao)

画像提供:発見!ニッポン城めぐり

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