第18回「幕末に流行した新型伝染病コレラの脅威!」【歴史作家・山村竜也の「 風雲!幕末維新伝 」】

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幕末維新の志士や事件の知られざる真実に迫る連載「風雲!幕末維新伝」。第18回のテーマは「幕末に流行した新型伝染病コレラの脅威」です。

江戸時代に3回流行

現在、日本および世界各国で新型ウイルスが猛威をふるっていますが、幕末維新期の日本でも似たような新型伝染病が流行したことがありました。当時の日本人を苦しめたその伝染病を、「コレラ」といいます。

コレラにかかると、激しい嘔吐と、下痢を催し、短期間で多くの者が死に至りました。その死に様があっけなくコロリと逝くというので、コレラをもじって「コロリ」と一般には呼ばれました。漢字では「虎狼痢」「狐狼狸」などという字があてられていましたから、よほど恐ろしいものとして認識されていたのでしょう。

『虎列刺退治』では、コレラが虎の頭部に狼の胴体、狸の巨大な睾丸を持つ妖怪として描かれている(東京都公文書館所蔵)

江戸時代においては、3回の流行年があり、文政5年(1822)、安政5年(1858)、文久2年(1862)がそれでした。このうち文政5年は少し時代が前なので、いわゆる幕末期を直撃したコレラの流行は2回ということになります。

ちなみに日本に初上陸した文政5年は、九州、中国地方から流行が始まり人々を恐れさせましたが、京都、大坂に波及したあと、東海道の沼津あたりで伝染がストップしました。これには、箱根の関所がうまく機能したのではないかともいわれています。

人や物資を厳しく管理したことが、病気の伝染もくいとめる結果になったのでしょう。そのため、首都の江戸に影響が及ばなかったことで、この年のコレラはまだ我が国を揺るがすほどの脅威にはなりませんでした。

安政5年の大流行と死者

しかし、それから36年後の安政5年(1858)、コレラは再び日本に上陸します。インドから清(中国)に広まっていたコレラ菌を、アメリカ軍艦ミシシッピー号が同年5月、長崎に停泊して日本に持ち込んでしまったのです。
これにより長崎の町にコレラ患者が出現し、またたく間に九州から本州中国、近畿地方に伝染していきました。そして今度は箱根の関所でもくいとめることはできず、7月には江戸にまで到達したのです。

この年は京都での被害はあまりなかったようで、京都四条大宮の商人・高木在中の日記には、江戸と大坂の情報として次のように記されています。

「(8月22日)江戸丹半殿より書状まいる。七月下旬より急病にて死に人多く、日々五、六百人ほど死、焼き場に死人積み候ようす申し来たる。世に三日ころりと申し候。(8月26日)当月中旬より、大坂表疫病にて人多く死ぬ由なり。焼き場に死人を積む由承る。俗に三日ころりと言う。」(『幕末維新京都町人日記』)

発症して三日で死ぬといわれていたことから、「三日ころり」という呼び名もあったのです。日記にはこのあと、「京都でも徐々にこの流行病で死ぬ者が増えてきたが、江戸や大坂よりはずいぶん少ない。これも神様に熱心に祈祷しているからだろう」などと、筆者の呑気な感想が記されています。

実際、江戸時代においては、コレラに対する有効な治療方法はありませんでした。なので幕府や医者は、換気をよくし、生ものを食べず、生水を飲まないといった病気に対する一般論を推奨するだけで、あとは人々はひたすら神に祈るしかなかったのです。

『東海道五十三次』を描いた歌川広重もコレラで死んだと伝えられている

『武江年表』によれば、この年のコレラによる死者は江戸だけで2万8千人。そのなかには次のような有名人も含まれていました。

7月16日 島津斉彬(薩摩藩主)没…西郷隆盛を抜擢したことで知られる幕末屈指の名君。薩摩で出兵準備の最中に発症して死亡しましたが、コレラ感染ではなく毒殺だったという説もあります。50歳。

8月13日 伊庭軍兵衛(幕臣・剣術家)没…江戸四大道場の一つである心形刀流伊庭道場の当主。のちに隻腕の剣豪として知られることになる伊庭八郎の実父でもありました。江戸で感染し、15歳の八郎を残して急死。49歳でした。

9月2日 梁川星巌(志士・詩人)没…尊王攘夷の志士の先駆者でしたが、安政の大獄で捕縛される予定の三日前に京都で感染して急死。捕縛直前での死は、星巌が詩人であったことに掛けて、「死に(詩に)上手」などと評されました。70歳。

9月6日 歌川広重(浮世絵師)没…江戸の定火消し同心をつとめたあと絵師に転じ、「東海道五十三次」「名所江戸百景」などの大ヒットシリーズを次々と発表。風景絵師の第一人者として活躍しましたが、感染により江戸の自宅で急死しました。62歳。

コレラには夏に流行するという特性があり、右のように7月~9月に死者が集中する傾向がありました。そのため、この年の流行は10月に入っていったん収束しましたが、翌安政6年(1859)の夏になって再び猛威をふるうようになりました。
このときのコレラは、新たに上陸したものではなく、前年流行したコレラ菌が再活性化したと考えられています。2年に渡り日本にはびこったコレラのために、9月14日、尊攘志士の梅田雲浜が江戸の獄中で感染して急死しました。45歳。

島津斉彬以下、これらの人物たちは、日本のためにまだまだいい仕事ができたはずなのに、その可能性をコレラはすべて奪い去ってしまったのです。

文久2年のコレラと麻疹

火葬し切れないほど山積みの棺おけを描いた『安政箇労痢(ころり)流行記』の口絵「荼毘室(やきば)混雑の図」(国立公文書館所蔵)

コレラはその3年後の文久2年(1862)にもう一度日本を襲いました。この年は発生経路がわかっておらず、夏頃、京都と江戸を中心に流行が始まったため、あるいはこれも3年前のコレラ菌が再活性化したものとも考えられています。

この文久2年のコレラによる死者は、江戸だけで7万3千人に及びました。数字だけ見れば安政5年を上まわる大流行があったように思えますが、実は文久2年の流行には特筆すべき状況があり、それは「麻疹(はしか)」がコレラと同時に蔓延していたということです。

麻疹は、高熱、発疹、咳や鼻水といった風邪に似た症状をともなう流行病ですが、当時は有効な治療法がなく、悪化すればコレラと同様に多くの者が死に至りました。これがコレラと同時に日本を襲ったのですから、文久2年の日本人は大変な苦労をしいられたことになります。

のちに新選組隊士として有名になる沖田総司も、この年21歳で麻疹に感染しました。沖田に剣術の稽古をつけてもらっていた多摩の小島鹿之助の7月15日の日記に記されています。

「近藤勇先生門人沖田惣次郎殿、当十三日より道助方へ代稽古まかりいでおり候ところ、これまた麻疹体につき、門人佐十郎布田宿まで馬にて送り行く。症の軽重あいわからず。この人、剣術は晩年必ず名人に至るべき人なり。故に我ら深く心配いたす。」(『小島日記』)

運良く沖田は軽症で済み、ほどなくして回復しました。しかし鹿之助の心配ぶりからわかるように、一歩間違えば助かっておらず、そうであれば新選組の剣豪として歴史に名を残すこともできなかったのですから、危ういところでした。

こうして文久2年に日本を震撼させたコレラ(及び麻疹)は、夏が過ぎて気温が下がると収束しました。幸いにそのあと江戸時代の間は再び流行することはなく、人々は明治という新時代を迎えることができたのです。

その後も私たち日本人は、伝染病と戦い続け、なんとかここまでは勝利することができました。だから、現在私たちを悩ませている新型ウイルスにも、国民が心を一つにして立ち向かえば、きっと打ち勝つことができるはず。そう信じて頑張っていこうではありませんか。

 

「世界一よくわかる新選組」(著:山村竜也/祥伝社)


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