戦に出れば連戦連勝の君主は魅力的です。けれど、暮らしている一般領民にとっては、良い政治を行ってくれることがいちばんですよね。
ただ、君主と言っても人間ですから完璧ではありません。戦国時代を統一した覇者・豊臣秀吉もそうでした。彼は善政を布いたのか、それとも失政を招いたのか・・・いくつか例を挙げて見ていきましょう。
善行その1.兵農分離(刀狩・喧嘩停止令など)
秀吉が行ったことと言えば、学校で習うのは「太閤検地と刀狩」ですね。その刀狩とは、武士以外の武器所有を認めず、一般庶民から刀を取り上げたというものです。
しかし実際は、刀以外の武器を持っている人々が多かったそうです。そのため、喧嘩停止令も発令されました。これは、武器を使って争いを解決してはいけないというものです。当時は殺し合いで問題を解決する風潮が強く、秀吉は暴力に頼ることを禁じたのです。これらによって兵農分離を推し進め、同時に治安の回復を目指したというわけです。むやみに刀を取り上げたというわけではなかったのですね。
善行その2.太閤検地
刀狩と同時に秀吉が行った太閤検地では、全国の田畑の測量と収穫量を調査しました。秀吉は、土地に用いる単位(尺など)や升を統一し、すべてを石高で計算するようにしたのです。これによって今まで自己申告制だった収穫高が実測ではっきりと記録され、年貢がどれくらい課されているのかもわかるようになりました。また、臣下に知行を給付する際や軍役を課す際にも、石高が記録されていることでとても参考になったのです。
こうした仕組みは今までなかったことなので、とても画期的な政策でした。その土地の経済だけでなく、文化や制度などの情報を中央が把握できるようになったのです。
悪行その1.文禄・慶長の役
秀吉は「唐入り」と称して、明を制圧することを考えていました。その手始めとして朝鮮半島に出兵したのが、文禄・慶長の役です。日本中の大名を総動員して李氏朝鮮の軍隊と戦い、重要拠点となる都市を占領しましたが、明の参戦により膠着状態となり、結局講和を結ぶことになりました。
日本の強さがある程度のところまで来ているところを見せることはできましたが、結果的に何も得るものはなく、失敗とみなされています。財政にも負担をかけ、多くの人材が戦死や病死で失われます。これによって大名たちの疲弊を招き、内乱が勃発したところも出てしまいました。結果的に、豊臣政権の基礎が揺らいでしまったのです。
加えて、徳川家康は直接朝鮮半島に出陣していなかったため、ダメージがありませんでした。このため、家康は力を温存し、来る天下取りに備えることができたのです。
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悪行その2.豊臣秀次切腹事件
後継ぎと目していた秀次を切腹させてしまった事件の真相については、いまだ謎に包まれています。様々な理由が憶測されているとはいえ、人材不足の豊臣家で唯一といっていいほどの希望だった秀次を死なせてしまったことは、秀吉の最大の失敗でした。
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悪行その3.二十六聖人処刑
キリスト教には寛容だった秀吉でしたが、サン=フェリペ号漂着事件を契機に態度が硬化します。キリスト教によって他国を征服していくという水先案内人の言葉を信じた秀吉は、キリスト教徒を排除すべしと考えたのでした。そして京都で捕らえた信徒26人を長崎に連れて行き、処刑したのです。
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みなさんの秀吉の評価は?
それぞれ良かった点と悪かった点がありましたが、皆さんは秀吉についてどうお考えでしょうか。天下人になると、戦以外にもやることが山積みだったことでしょう。国を造っていく、という作業は大変だったんだな・・・と筆者は秀吉に「お疲れ様でした」と言いたいです。
(xiao)
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