![【天下の槍働き!】戦で武功を挙げ「七本槍」と呼ばれた名将たち](https://rekijin.com/wp-content/uploads/2016/08/shizugatake.jpg)
戦国時代、大きな合戦で功名をあげた武将を選抜して「七本槍(しちほんやり)」と呼び、大いに褒め称えました。
そんな「七本槍」、あなたは全員知っていますか?
【日本槍柱七本】豊臣秀吉が褒め称えた戦上手の七人
豊臣秀吉は天下を統一すると、戦がうまい七人を「日本槍柱七本」と呼称させます。
その七人は小野鎮幸、本多忠勝、島津忠恒、後藤基次、直江兼継、飯田直景、吉川広家です。
飯田直景は飯田覚兵衛という名前のほうが有名かもしれません。
幼い頃から加藤清正に仕え、賤ヶ岳の戦いの時は清正と共に奮戦し武功をあげます。
また朝鮮の役では亀甲車と言われる攻城専用の装甲車を建造し、晋州城へ一番乗りを果たしました。これらの活躍が秀吉に認められて、日本槍柱七本に選ばれることになったそうです。
【不落の城も陥落】うわじま牛鬼まつりの起源?文禄の役で活躍した戦車「亀甲車」
【賤ヶ岳七本槍】賤ヶ岳の戦いで抜群の功績をあげた七人とは
![秀吉と賤ヶ岳の七本槍 『賤ヶ嶽大合戦の図』](https://rekijin.com/wp-content/uploads/2016/08/640px-Battle_of_Shizugatake-1.jpg)
秀吉と柴田勝家は信長亡き後の織田家の主導権を握るため、賤ヶ岳の地で合戦を行います。
この時、秀吉に命じられた七人の若者は一目散に柴田勢の中に駆け込み、数々の武功をあげていきます。結果、この戦いは秀吉の大勝利で幕を閉じ、武功をあげた七人の若者達は「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる事になったのです。
この七本槍に選ばれた七人は福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、片桐且元、糟谷武則です。
この中で特に目覚ましい槍働きをしたのは福島正則です。
![福島正則](https://rekijin.com/wp-content/uploads/2016/06/fukushima-300x200.jpg)
彼はこの戦いで一番槍をあげ、柴田方の武将である拝郷家嘉を討ち取る抜群の功績を残しました。そのため、七本槍の中でも5000石と一番多くの褒美を秀吉から貰うことになります。
【 実は酒乱で恐妻家 】直情径行のザ・武闘派!福島正則
【上田七本槍】上田合戦に貢献した七人とは
徳川秀忠は関ヶ原の戦いの時、父・家康と別れ、別動隊を率いて中山道を経由し濃尾平野を目指します。
信濃の大名である真田昌幸は、秀忠率いる徳川軍の足止めを行うべく様々な挑発と策略を行います。
若い秀忠はまんまと引っかかり、上田城へ攻撃を開始。昌幸の知略によって徳川軍は大敗北してしまいます。
![真田昌幸像。父上、さすがです。](https://rekijin.com/wp-content/uploads/2016/08/384px-Sanada-Masayuki.jpg)
この戦いで活躍した徳川氏家臣の七人、中山守照、小野忠明、辻久吉、鎮目惟明、戸田光正、斎藤信吉、朝倉宣正は「上田七本槍」と称えられることになります。
とはいえ実際のところは、軍令違反の抜け駆けだったこの負け戦を隠し、戦果を誇張するために作為的に呼ばせたものだとか・・・。
七人のなかでも目覚ましい功績を残したと言われる小野忠明は、伊藤一刀斎から剣術を教えられ剣豪としても知られていました。
上田合戦でも研ぎ澄まされた剣技を披露し活躍しますが、軍令違反の罪に問われ、蟄居を命じられてしまう何とも残念な運命を辿ってしまいます。
いかがでしたでしょうか。今回は戦国時代の七本槍と呼ばれる名将たちに光を当ててご紹介しました。
7人全員の名前が言えた方はスゴイです!
七本槍と呼ばれても、大名としてその後活躍することになるのはごく一部だけでした。
やはり戦国の世は厳しかったのですね・・・。
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