「真田丸」での草刈正雄さんの演技で、ますますカッコ良さが際立つ真田昌幸。
彼の智謀が最大限に発揮されるのは、戦場でした。中でも、彼の采配が見事に的中した第二次上田合戦はどのようなものだったのでしょうか。
第二次上田合戦勃発の背景
慶長5(1600)年、再三の上洛要請に応じない上杉景勝に対し、徳川家康は諸大名を引き連れての上杉征伐を決行します。
そこに真田昌幸・信幸・信繁父子も従軍していました。
しかし、その途上で石田三成挙兵の一報が入ります。
下野の犬伏で3人は親子会議を開き、昌幸と信繁が西軍、本多忠勝と姻戚関係となっていた信幸が東軍へ着くこととし、昌幸と信繁は上田へ帰りました。これが「犬伏の別れ」です。
一方、東軍は下野の小山で三成挙兵の報に接し、西へ取って返しました。
家康は東海道を進み、秀忠は中山道を進みます。そして、秀忠の行く手には真田の上田城があったのでした。
まずは挑発してみる
進軍してきた秀忠軍の数は3万8千、対する真田軍はわずか3千ほどでした。
9月2日に小諸城に着いた秀忠は、降伏を勧める使者を送ります。昌幸からは降伏の意思があるように返ってきたものの、それ以降連絡が途切れます。
秀忠が「結局どうなっているのだ」と返事を催促したところ、昌幸の答えは「やっぱり三成に味方します。戦の準備も整いましたので、いつでもどうぞ」という実に人を食ったものでした。
こんな挑発、乗るなという方が無理というものですよね。パパ、さすがです・・・。
怒った秀忠は上田城攻めを決定。9月5日、支城の砥石城を信幸に攻めさせました。
守るのは信繁、すわ兄弟対決か!?と思われましたが、信繁は戦うことなく上田城へ退却してしまいます。
面白いほど策がはまる!昌幸の智謀天井無し
勢いに乗った徳川軍は上田城の本攻略に乗り出しました。真田軍をおびき出すため、田んぼの稲を刈り取る「苅田戦法」を取ります。
すると、数百人ほどの真田兵が出てきたため、徳川軍はこれを撃破し、逃げる相手を追撃して城門へと迫りました。
そこで昌幸の采配が冴え渡ります。
徳川軍を引きつける頃合いを見計らって、城門を開け放ちました。その向こうには整然と並んだ鉄砲隊の姿が・・・。
そして徳川方は鉄砲の一斉射撃を浴び、大混乱に陥ったのでした。
一方、前夜に信繁が別働隊を率いて城を出ており、秀忠の本陣へ奇襲をかけていました。
本陣も混乱を極め、秀忠は家臣の馬でやっと小諸へ逃れたのです。
ここで終わらないのが、真田昌幸です。彼はさらに策を仕掛けていました。
あらかじめ神川の上流で川をせき止めておき、信繁の合図で一気に堰を切ったのです。濁流となった川は、混乱のさなかにいる徳川軍を飲み込み押し流してしまいました。
徳川も認めた真田の大勝利
昌幸の作戦がことごとく的中し、第二次上田合戦は真田方の大勝利に終わりました。
徳川方の史料ですら、「我が軍大いに破れ、死傷算なし」と記しているほどなんですよ。
戦意喪失の徳川軍に、家康から「9月9日までに美濃赤坂へ来い」との使いが来ます。上田にいるこの時点で9月5日ですから、秀忠は戦いを切り上げて上田から撤収し、関ヶ原を目指すことにしました。
その後、関ヶ原の戦いで西軍は敗れ、昌幸と信繁は九度山へ流刑となりました。
ここで昌幸は亡くなります。
昌幸の智謀が最後の輝きを見せたのが、この第二次上田合戦だったというわけです。
この戦いぶりを聞いたら、真田に肩入れしたくなりますね。
数に頼らない、智謀を駆使した戦の神髄はここにあると思います。これが昌幸最後の戦というのが実に勿体ないです。
(xiao)
参照元
うえだで!! 長野県上田市 信州上田観光おもてなしサイト
九度山町観光情報
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