1596年の9月5日、京都・伏見で大地震が発生しました。「慶長伏見大地震」と呼ばれるこの地震、大河ドラマ「真田丸」でも建築中の伏見城が倒壊したシーンが描かれていましたね。
実はこの慶長伏見大地震の4日前、愛媛では慶長伊予地震が、また前日には大分で慶長豊後地震という大地震がわずか5日間の間に連続で発生していました。これら3つのは地震は連動していると言われています。その天変地異から「文禄」から「慶長」へ改元が行われました。
それでは戦国時代の大地震はどのようなものだったのでしょうか。中には、一夜で一族を滅亡させてしまった地震もあったそうです。
秀吉も恐怖!慶長伏見地震
文禄5(1596)年に起きた慶長伏見地震は、M7.25~M7.75という大きなものでした。
秀吉がいた指月伏見城の天守は倒壊し、東寺や大覚寺も倒壊被害を受けました。死者は1,000人を超え、伏見城内だけで600人近くが亡くなったそうです。
日本のアトランティス・瓜生島を沈めた慶長豊後地震
慶長伏見地震の前日に起きた慶長豊後地震もM6.9-M7.8という非常に大きな地震でした。
慶長豊後地震では5~8mの津波が沿岸や島々を襲い、死者800人以上という大きな被害が出たそうです。
その中に、謎の島の伝説があります。
大分の別府湾にあったという瓜生島は、地震の後わずか一夜で沈んでしまったと言われているのです。
ただ、実際に瓜生島が存在していたのかということについては諸説あり、島ではなく半島だったとか、村だったとか、様々な意見があるようです。
とはいえ、一夜にして沈んだ島は、約1万2千年前に沈んだ超古代文明アトランティスになぞらえられて今に伝わっています。
一夜で一族が滅亡した・天正地震
他にも戦国時代最大の災害による悲劇と言えば、飛騨国帰雲城を居城とした内ヶ島氏のことを忘れてはなりません。
帰雲城は、ちょうど白川郷の辺りにありました。急峻な地形のため外征はほとんどせず、内政に力を注いでいたそうです。
最後の当主となった内ヶ島氏理は、上杉謙信や姉小路頼綱らの侵攻を受けながらも撃退しています。
その後は織田信長の家臣・佐々成政に従いました。成政が羽柴秀吉と敵対すると共に戦いますが、秀吉の部下の金森長近に城を奪われてしまいました。しかし秀吉との和睦に漕ぎつけると、所領を安堵されています。
そして、氏理は和睦を祝う宴を帰雲城で開いたのです。しかし、宴も盛りを過ぎた深夜、突如として激しい揺れが城を襲います。
天正13年11月29日(1586年1月18日)に発生した天正地震です。
城がある帰雲山は揺れに耐えきれず崩れました。そして、土石流はあっという間に城を呑み込んでしまったのです。城には宴の余韻を楽しむ内ヶ島一族と重臣たちがいましたが、彼らは一瞬にしてその命を奪われることとなってしまいました。
そして、この時をもって内ヶ島氏は滅亡したのです。
この土石流によって、城下町までも埋まってしまいました。せき止められた川は洪水を起こし、出かけていた者以外は全滅状態となったのです。
天正地震のマグニチュードは不明ですが、近畿、東海、北陸など広範囲に甚大な被害を及ぼしたそうです。
一方、天正地震の犠牲者は他にもいました。
越中国(富山県)木舟城の城主・前田秀継は妻と共に圧死しています。彼は前田利家の仲の良い弟でした。
白川郷にそんな歴史があったとは知りませんでした。内ヶ島氏については、悲劇としか言いようがないですね。
秀吉が「ナマズの仕業だ!」と言っていたように、メカニズムが解明されていない戦国時代にはさぞかし恐怖だったことでしょう。
地震はもちろん、災害はいつの世にも起こります。現代でも日頃から備えておく必要がありそうです。
(xiao)
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