うつけものと言われた吉川広家
吉川広家は、吉川元春の三男として、永禄4(1561)年に生まれました。
幼い頃は盃の受け方など当時の常識に合わない所作をとるので、父・元春から「うつけ者」と叱られていました。
うつけとは、空っぽという意味で、転じて暗愚な人物を指します。一方、常識にとらわれない人物もしばしばうつけと言われます。織田信長が良い例でしょう。広家も、どうやら常識にとらわれない方のうつけであったようです。
思いがけず吉川家当主に
三男だった広家は、このままでは兄の下で捨扶持をもらいながら生きるしかないと思い詰めます。
そこで、天正8(1580)年から天正10(1582)年にかけて、広家は自分が石見小笠原家の小笠原長旌の養子に入るという話を勝手に纏めてしまいます。結局、父・元春にこっぴどく叱られ、破談になってしまいました。
しかし天正14(1586)年、秀吉の九州討伐の途中で、父・元春が病没してしまいます。
そして翌年には、なんと長兄の元長までもが病で死んでしまったのです。
次兄は既に他家の当主になっていたので、思いがけず三男の広家が吉川家を継ぐことになりました。
広家は、毛利両川の一角として、懸命に毛利家を支えます。
この尽力を秀吉も認め、広家は官位を授かります。ただ、秀吉と毛利家の窓口は安国寺恵瓊が務めていたため、広家は秀吉との接点はあまりなかったようです。
うつけ者の覚悟
秀吉の死後、広家は徳川家康の天下を見越して、家康に接近します。
慶長5(1600)年、家康と石田三成との関係が一触即発になると、広家は主君・毛利輝元に家康の味方をするよう言い続けました。しかし広家の知らないところで、三成と恵瓊によって輝元を担ぎ上げる工作が進んでいたのです。
上杉討伐の名目で上方を留守にした家康に対し、三成が挙兵。すると、三成ら西軍の総大将は輝元であると天下に喧伝されました。
広家は愕然とします。
しかし、このままでは毛利家が危ないと感じた広家はある決断をします。
それは、毛利家を救うために毛利家を裏切るという常識にとらわれないうつけの決断でした。
広家は、毛利家の本領安堵を条件に家康への内通を約束します。
そして迎えた関ヶ原本戦。家康の背後・南宮山に陣取った毛利勢の先陣は広家でした。
先陣が動かないと毛利本隊とその後ろの長宗我部勢が動けない布陣です。
そこで広家はサボタージュを決め込み、毛利本隊を封じたのです。
西軍から何度参戦を促す使者が来ても、序盤は霧が濃いため様子を見ると突っぱねます。
霧が晴れても「これから弁当を食べる」と言い放ち、困っていた毛利軍総大将・毛利秀元も同様に答えたため、「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれたといいます。
結果、決戦は一日で終わり。
吉川勢毛利勢は戦わずして戦場を後にしたのです。
関ヶ原後、家康との対決
毛利家を守ったと思った広家でしたが、次は家康との対決が待っていました。
戦後、毛利家本領安堵の約束を家康は反故にしようとします。
敵の総大将となったからには処刑されても文句は言えないのが常識です。しかし、広家は家康に対して「自分は毛利のために内通した。しかし、毛利家が滅んでは意味がない。毛利家存続が叶わないならば、自分を輝元同様の処分とするように」と決死の嘆願を行います。
結果、常識を覆し、毛利家は周防・長門二か国36万石に厳封されたものの存続が決定、広家も減封で岩国3万石に封じられました。
家康もさすがに違約を恥じたのかも知れませんね。
うつけ=常識を超える者
広家は正しく不戦を武器に戦いました。
そして、敵総大将は処罰が当然という流れを変えました。常識を超えた交渉はまさしく「うつけ外交」と言ってもいいでしょう。
自身の功績を無に帰しても毛利家を助けたいという広家の心が、家康の心を動かし、毛利家の危機を救ったのかも知れません。
(黒武者 因幡)
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