9月6日は「妹の日」なのだそうです。
現代に活躍する女性には「妹」が多いことを発見した漫画家の畑田国男氏が制定したのだとか。
歴史上で有名な「妹」と言えば、やはり織田信長の妹・お市や浅井三姉妹の末っ子・江などでしょうか。
今回は彼女たち以外の歴史に残る「妹」、またそんな妹を愛しすぎた兄のエピソードについてご紹介します。
病身の兄を介護して7年間!正岡律
正岡子規の妹・律は、10代で2度の結婚と離婚を経験して実家に戻ってきました。
すでにこれだけでも波乱万丈の人生ですが、彼女の人生にはこの後いちばんの大仕事が待ち受けていたのです。
兄の子規は東京で新聞記者をし俳人しても成功していましたが、結核を患い、やがて脊椎カリエスを併発して寝たきりとなってしまいました。律はすでに東京で兄と同居していたため、24時間介護を彼が亡くなるまでの7年弱続けたのです。
下の世話やカリエスによる傷の手当、食事の世話に加え、不平を言う子規と対峙し続けた日々に休みなど1日もありませんでしたし、私たちの想像以上に過酷な介護生活だったことでしょう。
これによって、律は20代半ばから30代までの女性の花盛りの日々を兄に捧げたのでした。子規の死後は裁縫を学び教員となりますが、もう結婚することはありませんでした。そして72歳で没すると、兄の墓の隣に葬られたのです。
妹の七光りで兄は「蛍大名」に!?京極竜子
北近江の名門京極家の当主・京極高吉の娘として生まれた京極竜子は、最初は若狭守護の武田元明に嫁ぐも、本能寺の変後に明智光秀に加担した夫が殺され未亡人となってしまいました。しかしその美貌を見初められ、羽柴秀吉の側室となったのです。
兄の高次もまた光秀側に付いたのですが、竜子の助命嘆願により助かりました。
それだけでなく、以後は順調に加増されて大名となり、従三位参議の位まで授かったのです。これは高次個人の能力というよりは、竜子(と妻の初)の存在によるものだったため、高次は「蛍大名」と揶揄されました。
竜子自身のエピソードと言えば、醍醐の花見の際に盃を受ける順番を巡って淀殿と争いになったという話がありますが、交流は大坂の陣まで続いていたようです。実際、大坂の陣では淀殿の侍女を保護したり、処刑された秀頼の息子・国松の遺体を引き取って埋葬したりするなど、心優しい一面を見せているのです。
ここまで行けば立派なシスコン・最上義光と妹・義姫
鮭を愛した出羽の大名・最上義光は、妹・義姫を溺愛していました。
義姫と言えば、そう、伊達輝宗に嫁ぎ政宗を産んだ女性です。やはり彼女も美しい姫君だったそうですが、同時に男勝りの気性でもあったようです。
夫・輝宗が上山満兼と組んで兄・義光を攻めた際、義姫は駕籠に乗って戦場に駆けつけると夫の元へ向かいました。
そして、「なぜこんな情けない兄弟喧嘩をなさるのです!?」と一喝、戦をやめさせたといいます。
また、息子・政宗と兄による大崎合戦が起こると、またも義姫は戦場に現れ、義光に停戦を訴えました。
この時、我が子が義姫に懐く様子を見た義光は号泣。結局、妹の頼みを受け入れて兵を撤収したということです。妹に弱すぎますね・・・。
義光は義姫に何通もの手紙を出しています。
それは10代から3,40代になっても続いたそうですよ。しかもその内容は「早く会って話がしたいなあ」など、まるでラブレターのような話だったそうです。嫁に出すときは泣いたんでしょうね、義光。
【 呼ばれたい? 】鮭が好き過ぎるから鮭様!面白い武将の異名
正岡律の献身には本当に頭が下がります。もし誰か偉人に嫁いでいたら、できた嫁になったのかなと思います。
知られていないだけで、有能な女性に「妹」が多いのは、現代だけじゃないのかも?
これはまだほんの一部。皆さんも「スゴい妹」、探してみませんか?
(xiao)
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