「閑(しずけ)さや巌(いわ)にしみいる蝉の声」―。
江戸時代の俳人、松尾芭蕉によるこの名句の舞台となったのが、「おくのほそ道」の旅の途中に訪れた山形市にある立石(りっしゃく)寺です。
「山寺」という通称の方が有名な立石寺は、貞観2(860)年に清和天皇の命令で天台座主の慈覚大師が創建したとされる古刹で、正式な名称は「宝珠山立石寺」といいます。
山全体に大小30余りの堂塔が立ち並んでいるほか、いたるところに巨岩や奇岩があり、その神秘的な景観から国内有数の観光スポットとしても知られています。
時の権力者や庶民から厚く崇敬されてきた立石寺ですが、戦火に焼かれたこともあります。
戦国時代には、出羽地方に攻め込んだ伊達稙宗に立石寺が味方したことへの報復として、有力国人の天童頼長が大永元(1521)年、焼き討ちを行います。この時、天台宗総本山である比叡山延暦寺から分灯されていた「不滅の法灯」が消滅したため、再び分灯を受けたという経緯があります。
しかし、その50年後には織田信長の比叡山焼き討ちで、今度は延暦寺の根本中堂にあった不滅の法灯が失われてしまいました。このため再建する際には逆に立石寺から分灯を受けたとされています。
その後の立石寺は山形城主だった最上氏などの厚い保護を受け、現在まで続きます。
立石寺に伝わる「ムカサリ絵馬」
長い歴史を誇る立石寺ですが、ここに「ムカサリ絵馬」という珍しい風習が伝わっていることをご存じでしょうか?
山形市のある村山地方だけにあるとされる風習で、事故や病気などで未婚で亡くなった子どものために、親が故人と架空の異性との婚礼の様子を描いて寺に奉納し、死後の幸せを祈るという冥婚の一種です。
ムカサリとは「迎えて去る」または「娘が去る」からきた言葉とされ、山形地方の方言で結婚を意味します。
立石寺以外にも若松寺(天童市)などが有名ですが、絵馬といっても額縁に納められたかなり大きなもので、多くは婚礼衣装に身を包んだ適齢期の男女の姿として描かれています。
しかし、中には故人は亡くなった当時の幼い男の子のままなのに、結婚相手は成人の女性という異様な構図もあるようです。
少し不気味な感じもしますが、「あの世で幸せになって」という我が子を思う親の切ない気持ちがこもる風習です。
しかし、そこには「生きている人の名前や肖像は決して描いてはいけない」という決して破ってはならないルールがあり、現在でも厳しく守られているそうです。
もし描いてしまうと、故人はその人を本当のパートナーだと思い込んで死後の世界へ連れていってしまう・・・という怖い伝承があるためで、絵馬に描かれる故人の結婚相手は必ず架空の人物となっているのです。
これと似た風習で、岩手県遠野地方では故人が死後の世界で暮らしている様子を描いて菩提寺に奉納する「供養絵額」が知られています。
また、死者の霊を呼び寄せるというイタコの口寄せが青森県を中心に伝わっていることも考えると、東北地方というのは独特の死生観が受け継がれ、日本の中でも死者との距離を近く感じることができる土地柄なのかもしれませんね。
参照元
宝珠山立石寺
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