「鬼平犯科帳」と言えば、故・池波正太郎氏の代表作。
長年放送されたテレビドラマがファイナルを迎える一方、来年にはアニメ化が決定して話題を呼んでおり、今も人気が衰えない時代劇のひとつです。
主人公「鬼平」とは実際の人物「長谷川平蔵」なのですが、どんな人物だったのかは意外と知らないのではないでしょうか。そこで今回は史実での「鬼平」をご紹介します。
庶民から人気だった「長谷川平蔵」
「長谷川平蔵」という名前は、3代にわたって使用されている通称です。
鬼平犯科帳の主人公の本名は長谷川宣以と言い、彼の父・宣雄と息子・宣義も同じ通称を使いました。
平蔵は延享2(1745)年に生まれました。若い頃は放蕩者で通っていたそうです。
安永2(1773)年に父が赴任地の京都で死去すると、30歳の時に後を継ぎました。父の貯金を浪費したり遊郭に通い詰めたりと、相変わらずの無頼な生活スタイルでしたが、順調に出世し、天明7(1787)年に火付盗賊改役となりました。
時は老中・松平定信の寛政の改革が行われている頃。平蔵は犯罪者を職業訓練する更正施設の人足寄場の建設を立案し、大きな貢献を果たしました。また、大盗賊・神道徳次郎や凶悪犯の葵小僧を逮捕し、江戸の治安維持に努力したのです。
人情味ある処置などで平蔵は庶民から人気があり、「今大岡」や「本所の平蔵様」と呼ばれました。そして火付盗賊改役に任命されてから8年後の寛政7(1795)年、病のため50歳で亡くなったのです。
清廉潔白な老中・松平定信とは合わず…
火付盗賊改役という役職は、通常なら2~3年で次のポストに昇進できるはずだったそうです。
ですが平蔵は8年も留め置かれました。そこには、時の老中・松平定信との不和があったようです。
人足寄場を建設する際、平蔵は資金不足から銭相場で元手を増やしたそうです。
しかしこのやり方にはちょっとダーティーな色合いもあり、松平の前に汚職で失脚した田沼意次を感じさせるものだったため、清廉潔白が売りの松平には受け入れがたいものだったのです。
元々、平蔵は若い頃から無頼者で通っており、目的達成のためには多少の悪はむしろ必要悪だと思っていたはずです。
被害者最優先だからこその処罰
また、平蔵が葵小僧という賊を捕らえた時のこと。葵小僧は、自分の容貌を女性に馬鹿にされたことからすべての女性に恨みを抱き、家に押し入っては暴行を働いていました。
本来なら裁判をして刑を執行するところですが、平蔵は葵小僧を捕らえるなり裁判もせずに斬首したのです。
葵小僧は、自分が犯罪を自白し記録が残ることで、被害者女性すべてを死ぬまで苦しめることができると考えていました。しかし平蔵はそれを聞いて、まず被害者たちのことを考えたのです。当時の女性たちは、賊に暴行されたとなれば外を歩くこともできなくなり、自ら死を選ぶ者も少なくなかったのです。
もしそんなことになってはあまりに被害者が哀れだと、記録を残す前に犯人を斬り捨てたのでした。
ちょっとダーティーなところも長谷川平蔵の魅力ですが、アニメ化には驚きましたね・・・。
しかし、これだけイケメンなら無頼者でも絵になりそうです。今から小説を再読しておきましょう!
(xiao)
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