【戦国の女城主は直虎だけじゃない!】立花宗茂の妻・誾千代

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【戦国の女城主は直虎だけじゃない!】立花宗茂の妻・誾千代

立花宗茂という素晴らしい武将をご存知の方は多いことでしょう。豊臣秀吉に武勇を激賞され、関ヶ原の戦いで改易されながらも奇跡の大名復活を成し遂げた人物です。そんな宗茂には、夫にひけを取らないほど勇ましい妻がいました。今回は、立花宗茂の妻である誾千代(ぎんちよ)についてご紹介します。

立花誾千代の生涯

誾千代は、永禄12(1569)年に大友氏の家臣・立花道雪(戸次鑑連)の娘として生まれました。

立花道雪像
誾千代の父・立花道雪像

誾千代の「誾」は、慎み、人の話を聞くという意味があるそうです。
道雪晩年の子であり、きょうだいが早逝したため一人娘となりました。
天正3(1575)年、道雪は大友家に許可を取り、なんと7歳の誾千代に立花城督を譲ります。男子と同じ手続きを踏み、誾千代は正当な道雪の後継者となったのでした。

そして天正9(1581)年、同じく大友氏の家臣・高橋紹運の長男・宗茂が道雪の養子に迎えられ、誾千代と結婚して立花家の後継ぎとなりました。この時宗茂は15歳、誾千代は13歳でした。

「誾千代の夫・立花宗茂(ゲームでは尋常でなくイケメン)」
「誾千代の夫・立花宗茂(ゲームでは尋常でなくイケメン)」

誾千代と宗茂の父たちは反大友勢力と戦を繰り広げていましたが、道雪が陣没し、その翌年には島津氏との岩屋城の戦いにおいて紹運が壮絶な討死を遂げてしまいました。しかし宗茂が頭角を現し、主の大友宗麟も豊臣秀吉に推薦します。
秀吉の配下となった宗茂は九州平定などで大活躍し、新たに筑後柳河に領地を賜りました。

慣れ親しんだ立花城を離れた誾千代ですが、柳河城から出て宮永村に住まいを構えます。ここで宗茂とは別居となり、不和を囁かれ、事実上の離婚とも言われるようになりました。

関ヶ原の戦いでは西軍に属した宗茂は、本戦には間に合いませんでしたが改易となってしまいました。2人は加藤清正のもとに身を寄せますが、そこで誾千代は病のため、慶長7(1602)年に34歳で亡くなりました。

そのとき、宗茂はすでに清正のもとを去り、流浪の旅に出ていました。しかし彼の人柄や才能を惜しむ声は高く、彼は大名復帰を遂げます。
そんな宗茂がまず行ったのが、柳河城下に良清寺を建てて誾千代の菩提を弔うことだったそうです。

福岡県柳川市にある良清寺
福岡県柳川市にある良清寺

誾千代の武勇伝!

誾千代には幾つも武勇伝が伝わっています。
宗茂が朝鮮に出兵していて不在だった時、秀吉は誾千代を名護屋城に呼び手込めにすることを画策しました。すると誾千代は自ら武装し、お供の侍女も武装させて参上したそうです。それを見た秀吉、すっかり尻込みして手出しできなかったという話が伝わっています。
宗茂が城に不在の時には誾千代がいつも侍女たちと武装して守っていたそうですよ。

また、関ヶ原の戦いに付随して起きた九州での西軍と東軍の戦いでは、誾千代は武装して出陣し、鍋島水軍に鉄砲を撃ちかけて敵を寄せ付けませんでした。また、加藤清正の軍勢を威嚇し、迂回させたと言います。

「大友文書」には、「(立花道雪に)娘ありて勇壮」とあり、誾千代が侍女を訓練し敵をビビらせたと記されています。

摩利支天の如く、凛々しく生きたぎん千代を描いた「まりしてん誾千代姫」 (PHP研究所)

誾千代と宗茂、不仲だったの?

宗茂が筑後柳河に新たな領地を得て立花城から引っ越した時に、2人の別居生活が始まりました。
一般的に見れば不仲ゆえの別居でしょうが、誾千代が父との思い出深い立花城を去りがたかったのかもしれません。

2人が完全な不和ではないことは、宗茂が関ヶ原から帰還した際に誾千代が出迎えに出たこと、加藤清正のもとに身を寄せながらも宗茂の再起を願い寺社参りを欠かさなかったというところからも推測できると思います。

宗茂との仲は、夫婦というより同志のようなところもあったのでしょう。
ゲームなどで人気なのは、こんな武勇伝がありながらも夫のためにお参りをするしおらしさがあったからかもしれませんね。

(xiao)

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