皆さんの周りには、彼氏が途切れない女性がいませんか?
そんな恋愛体質の元祖とも言うべき女性は、平安時代に生きた「和泉式部」ではないでしょうか。歌人としても名を馳せた、彼女の奔放なラブロマンスをご紹介しましょう。
和泉式部の生涯
越前守大江雅致の娘に生まれた和泉式部は、和泉守橘道貞の妻となりました。和泉式部という名は、夫の任国と父の官名を合わせたものです。
夫との間には娘・小式部内侍をもうけますが、やがて結婚生活は破綻し、別居状態になってしまいました。
そんな式部に、冷泉天皇の皇子・為尊親王とのロマンスが浮上しました。
あまりにも高貴な相手に、下級官吏の娘でしかない式部との恋を周囲は大反対し、父は彼女を勘当してしまいました。そして不幸なことに、為尊親王は病気で亡くなってしまうのです。
この辺りからが、式部が書いたという(諸説あり)「和泉式部日記」の舞台となります。
傷心の式部に慰めの手紙を送ってきたのは、なんと故為尊親王の実の弟・敦道親王でした。2人はあっという間に深い仲となります。その恋はさらに激しく、敦道親王は式部を自分の屋敷に迎え入れました。それに怒った親王の正妃が実家に帰ってしまうほどだったのです。
親王との間に式部は子供をもうけましたが、この恋も長くは続きませんでした。またも親王が亡くなってしまい、式部は行き場を無くしてしまったのです。
その後、式部は藤原道長の娘で一条天皇の中宮となった彰子の元へ出仕しました。ここで紫式部や赤染衛門らと交流しながら宮仕えをします。そして道長に仕えていた藤原保昌と再婚し、夫の任地へ下っていきました。晩年の様子は不明です。
「浮かれ女」と呼ばれた理由
恋多き式部は「浮かれ女」と呼ばれますが、これは藤原道長がそう呼んだことに由来します。彼女の扇を見つけた道長が「うかれ女の扇」と書きつけたのだそうです。
平安時代は夜這いから恋が始まるような自由恋愛の時代でしたが、式部のように奔放で恋愛体質な女性はレアだったのでしょう。その評判は道長の元にまで届いていたということです。
紫式部が評するには、「和歌などはとても上手だが、ちょっとけしからん女性だ」ということで・・・「けしからん」とは、身持ちが良くないとか素行がよろしくないとかいうことですね。
しかし彼女の詠む和歌は情熱的で、歌人としての評価は高いものでした。
男を夢中にさせた和歌の腕
式部が、まだ顔を見ていない敦道親王に送った歌です。
“かをる香に よそふるよりは ほととぎす 聞かばやおなし 声やしたると”
(花橘の香りにかこつけて亡き宮様をしのぶよりも、ほととぎすの声のようにあなたのお声を聞きたいのです。亡き兄宮様と同じなのでしょうか)
こんな歌を詠みかけられてよろめかない男性がいるのかと思います。恋愛テクなのか天然なのか、式部のすごさはこういうところにあると思います。
また、親王と深い仲になってからは、牛車の御簾を上げて2人で居るところを周囲に見せています。不倫関係なのにオープンカーで顔を隠さずにいるような感じでしょうか。恋は盲目です。
恋愛体質を受け継いだ娘・小式部内侍
式部の娘・小式部内侍もまた、母同様恋多き女性でした。
母と共に中宮彰子へ出仕しますが、そこで藤原氏の御曹司たちと恋に落ちます。道長の息子・教通、中納言藤原定頼、藤原範永、中納言藤原公成など実に華麗な恋愛遍歴です。しかし公成との子を出産後に若くして亡くなってしまいました。式部の哀しみは深かったようです。
和泉式部は、自分に真正直に生きた女性なのだと思います。だからこそ情熱的、男性を虜にしたのではないでしょうか。
その和歌の腕も見事でした。百人一首にも収録されているので、ぜひ一読あれ!
(xiao)
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