【新たな国を目指して】激動の幕末にロマンを追い求めた榎本武揚

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北海道は、2018年に命名150年を迎えました。これを記念し、「ほっかいどう百年物語」という番組でこれまで数多くの北海道の偉人たちを紹介してきたSTVラジオによる連載企画がスタート。第8弾は、箱館戦争で新政府軍と最後まで戦い続け、降伏後は北海道開拓に従事した「榎本武揚」です。


榎本武揚は徳川家の家臣で、明治維新に反対し、激動する幕末の時代に自分たち幕府の国を蝦夷地につくろうとした人物です。そのため戊辰の役の箱館戦争を引き起こしてしまいますが、死を覚悟してまで自分の意志を貫いたその生き方は、現在でも多くの人々にロマンを与え、その名を残しています。

榎本武揚(画像:国立国会図書館)

箱館の地で世界を知る

榎本武揚は、1836年に榎本家の次男として江戸に生まれました。武揚の父親は日本の地図を作った伊能忠敬の内弟子で、蝦夷地の測量に同行もしたことがあります。その父親が、武揚に蝦夷地への憧れを何らかの形で与えたことは間違いありません。武揚は本名を釜次郎といいます。釜という名は、食いはぐれのないようにと父親が付けたもので、ちなみに長男は鍋太郎というそうです。

生粋の江戸っ子だった武揚は、12歳のとき幕府経営の学問所、のちの東大となる、昌平黌(しょうへいこう)に入学します。昌平黌は当時の秀才コースで、ここで良い成績をとれれば将来は出世間違いなしというところでした。しかし、おおかたの期待を裏切って、武揚は5年後の卒業試験には最下位の成績しか得られませんでした。これは、学問所が幕府の官僚の息子に良い成績を与えたもので、武揚は能力を正当に評価されない挫折感を味わいました。学問所は武揚を、蝦夷地箱館奉行の堀織部正(ほりおりべのしょう)の部下として推薦しました。こうして箱館に向かったことが武揚の生涯を決定してしまうのです。

榎本武揚の銅像(東京都墨田区)

当時世界はクリミア戦争のなかにあり、イギリス・フランス連合軍とロシアが世界各国で戦っていました。日本人のほとんどは知らないでいましたが、アジアでもその戦争は起こっており、ロシアの追撃を恐れたフランス艦隊が箱館に緊急避難していました。武揚はこれを見たのです。それまで鎖国で誰も教えてくれなかった世界が初めて目の前にあり、聞いたことのない言葉が耳元にありました。なかでも彼を最も驚かせたのは軍艦の存在でした。日本はこれまで外交を拒否してきたため海軍も、ましてや軍艦も持っていなかったのです。

ちょうどその頃、アメリカ艦隊、ペリー来航によって開国させられた日本は、長崎に海軍伝習所を設立し、軍人の育成をはかりました。箱館から帰ってきた19歳の武揚はすぐこれに応募しましたが、またも幕府の官僚主義に妨害されてしまい、武揚はようやく二期生で、しかも他の生徒の付き人として入学が許されたのです。武揚がこれほどの屈辱に耐え、粘りに粘ったのも、それほどまでに海軍への憧れが強かったからでしょう。

徹底した海軍教育を受け、トップの成績で卒業した武揚は、江戸に新しく開かれた築地海軍操練所から24歳の若さで教授に迎えられました。

オランダ留学と開陽丸

その頃幕府は、外国に対抗できるほどの軍艦一隻をオランダに注文し、留学生も送る準備を整えていました。学問所でジョン万次郎から英語を習っていた武揚も、その留学生メンバーに加えられました。

オランダでの武揚の主な仕事は、発注した軍艦築造の監督でした。船は日ごと形を整え、4年の歳月をかけ遂に完成しました。造船中はオランダ語で「夜明け前」という意味のフォールリヒターと呼ばれていたその船は、完成後「夜明けが過ぎて日は昇った」ということで開陽丸と名づけられました。総重量2817トン、それまで日本で最高といわれていた咸臨丸はわずか630トン、ペリー軍艦ですら2500トンの旧式でした。この開陽丸はのちの戊辰戦争で武揚の切り札ともなった、世界第一級の木造軍艦でした。

この、国の財産ともいうべき開陽丸を携えて帰国したのは、武揚32歳の時でした。釜次郎から武揚に改名したのもこの頃です。

1867年頃の開陽丸

新たな国をつくるため蝦夷地へ

武揚は幕府から海軍副総裁に任命されましたが、その直後、将軍徳川慶喜の退位で江戸幕府は滅亡してしまいます。この大政奉還によって、徳川家を主君とする武揚のまわりには幕府復興を願う人々が集まりましたが、武揚自身の考えは、政権争奪というよりも、不当な理由で徳川勢力をつぶそうとする西郷隆盛ら新政府の態度を改めさせ、幕府に対して寛大な処置を希望するというだけでした。しかし新政府はこの武揚の真意を理解せず、政権を狙う反逆者としてしまったのです。

この時武揚は新政府の裏情報をフランス人から聞き出しました。ちなみに武揚は英語・オランダ語・フランス語・ドイツ語・ロシア語を流暢に話すことの出来る、語学の天才でした。そのフランス人の情報によると、西郷隆盛らが何を言いどう動こうと、全て筋書きはイギリスが作り、何も知らない者たちがそれに踊らされているだけだということでした。討論もなく選挙もなく、国民は一方的に政権を押し付けられるのです。「このような新政府のもとに組み入れられてはならない。人間は自分たちの国を選ぶ権利がある」武揚はこう考えて、日本にもうひとつ別な国をつくろうと決意したのです。

榎本武揚は、新しい国を北海道につくろうと思いました。北海道と武揚の関わり合いは深いものがあったからです。初めてフランス艦隊に出会い海軍を志したのが箱館であり、当時の上司であった堀織部正から外交を教わったのもこの地でした。「江戸を去り、将来の日本のために平和な国を築くつもりである。世界と肩を並べるにはこれしかない」武揚はこう言って脱走という形で江戸を去りました。しかも驚いたことに、新政府に反対する武士たちが2300人も集まり、皆ひとつの信念を持って開陽丸に乗り込んだのです。

「蝦夷共和国(箱館政権)」のメンバー。後列左から小杉雅之進、榎本対馬、林董三郎、松岡磐吉、前列左から荒井郁之助、榎本武揚。

蝦夷地に向かった彼らの目的は、とりあえず箱館占領でしたが、武揚は直接突入することを避けました。それは、市民を争いに巻き込みたくないという配慮からでした。そこで、森町の北、鷲ノ木村に上陸し、なるべく犠牲者を少なくしながら、箱館・松前など次々と攻略していきました。その数日後、武揚は開陽丸に乗って箱館に入港し、五稜郭を占領しました。蝦夷地の攻略は順調に進んだのですが、ここにきて一大悲劇が起こったのです。

冬の江差を攻撃中、開陽丸は敵の手ではなく日本海の荒波と厳しい風雪によって沈没してしまいました。日本の制海権が武揚の手の中にあると誇ったのも、開陽丸あってのことであり、その開陽丸が誇る武力の前に、新政府軍は海峡を越えて、討伐の兵を進めることができなかったのです。唯一の切り札だった開陽丸を失った今、武揚ら幕府軍が勝利する見込みはありませんでした。

箱館に戻った武揚は、国作りに必要な選挙を行いました。士官以上の者から総裁選を行い、その結果総裁には武揚が当選、ここに「蝦夷共和国」が誕生したのです。

箱館戦争で降伏

その頃東京では、開陽丸が沈んだことを知らない新政府軍が、武揚の行動に頭を抱えていました。はじめ、彼らの主君である徳川慶喜に降伏を勧めてもらうことも考えましたが、たとえ脱走したとはいえ、忠誠をかけての命がけの行いに、徳川家から武揚への降伏命令は下りませんでした。そこで、開陽丸に対応できるアメリカの軍艦、ストーン・ウォール号を手に入れた新政府は、いよいよ武揚討伐にとりかかることになったのです。その指揮を執ったのは、のちの北海道開拓長官、黒田清隆でした。

黒田は「屈辱よりも死を選ぶ」という信条を持った武揚の命をなんとか救うため、五稜郭での戦いを最小限に食い止めようとする計画を進め、一気に総攻撃を加えました。武揚はこれにやむを得ず降伏し、五稜郭を開け渡す前日、残った兵士達を集めて、別れのあいさつをしました。

「新国家建設の理想のもとに、諸君は最後まで私達を見捨てることなく、よく奮闘してくださった。心より感謝を申し上げる。運はこちらに向かず、志ならずといえども、今日までの我々の行いは必ずしも無駄ではない。きっとや明日の日本国のために活かされるに違いない。いや、活かさなければ、悲運にもこの蝦夷地の土となった大勢の仲間たちにあわせる顔がありません。どうか諸君、政府の深いご慈悲を信じ、決して力落とすことなく、明日からも正々堂々と生きていきましょう。ほんとに、ほんとうにご苦労でした」

武揚の言葉は涙でしめくくられ、それを聞く兵士からもすすり泣きがおこりました。こうして、五稜郭にたてこもって7か月目にして戊辰戦争はようやく終わりを迎えたのです。

榎本武揚らが占領した五稜郭

北海道開拓に従事

東京へ送られた武揚は重罪反逆者として投獄されましたが、黒田清隆が頭を丸坊主にして武揚の助命を願う運動を起こしたことによって、武揚は死刑を免れました。黒田のこの助命運動は、実は西郷隆盛の願いでもあったのです。西郷は、武揚を日本の近代化に非常に得がたい人物と、高く評価していたのです。

明治3年、黒田は北海道開拓次官に就任しました。武揚が箱館に新しい国を作ろうとしたのも、元々蝦夷地の開拓を願ってのことだったので、その事業を黒田が引き継いでくれたことを知った武揚は、「自分が牢獄から生きて出ることが、黒田への恩返しにつながる」と悟りました。そして、日本の近代化をより確かなものとするためには北も南もなく、日本は一つになって努めなければならないと、心を新たにしていました。

明治5年に無罪を勝ち取った武揚は、政府から北海道の鉱山検査を命じられました。こうして、戊辰戦争で生き残った者たちは皆開拓使に入り、37歳の武揚も、開拓判官として再出発をはかりました。黒田を助け、共に北海道に携わり、また語学を生かして、樺太・千島など国土交換の交渉のためロシアに着任したりと、その後の彼は目をみはる活躍を見せました。明治41年71歳で亡くなるまで、黒田との友情は40年も続いたそうです。

晩年の榎本武揚(画像:国立国会図書館)

語り継がれる壮大なロマン

武揚の新しい国を築く夢は、多くの犠牲と共にはかなく消えました。武揚と運命をともにした軍艦開陽丸は、昭和49年から10年間をかけて引き上げ作業が行われ、復元されたのち、平成2年4月に開陽丸青少年センターとして江差港マリーナにオープン、以来68万人の人々が訪れ、榎本武揚の壮大なロマンに触れています。

 

(出典:「ほっかいどう百年物語」中西出版

STVラジオ「ほっかいどう百年物語」
私達の住む北海道は、大きく広がる山林や寒気の厳しい長い冬、流氷の押し寄せる海岸など、厳しい自然条件の中で、先住民族であるアイヌ民族や北方開発を目指す日本人によって拓かれた大地です。その歴史は壮絶な人間ドラマの連続でした。この番組では、21世紀の北海道の指針を探るべく、ロマンに満ちた郷土の歴史をご紹介しています。 毎週日曜 9:00~9:30 放送中。

 

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