高杉晋作といえば、まず思い浮かべるのは奇兵隊でしょうか。
全力疾走で駆け抜けた短い生涯において、彼のやることなすことはすべて規格外でした。その途方もないスケールは、今も多くの人を魅了してやみません。土佐に坂本龍馬がいるなら、長州に高杉晋作ありと言っても過言ではないのです。
今回はそんな、高杉晋作の伝説をいくつかご紹介しましょう。
まさに電光石火!高杉晋作が生きた27年
長州藩士の家に生まれた晋作は、吉田松陰の松下村塾で久坂玄瑞や吉田稔麿らと学び「松下村塾四天王」と呼ばれました。その後尊王攘夷運動に身を投じ、数々の過激な行動に走ります。
そして文久3(1863)年、身分によらない兵隊「奇兵隊」を結成し、長州藩を倒幕へ方向づけたのでした。
しかし病に倒れ、27歳の若さで亡くなっています。
松下村塾での後輩に当たる伊藤博文は、晋作を「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」と評しています。
晋作の電光石火のような行動力が伝わってきますね。
攘夷のために放火!
その電光石火の行動力をもって、晋作は文久2(1862)年に江戸に建設中だった英国公使館焼き討ち事件を起こします。
久坂玄瑞や伊藤俊輔(博文)らも一緒でした。
この前に薩摩藩士が横浜で生麦事件を起こし、英国人を斬り殺しています。
これについて晋作は「薩摩は生麦で夷人を殺し攘夷の実を挙げたのに、我が長州はいまだ公武合体を説いている。何とかして攘夷の実を挙げねば」と言っていたそうです。
しかし、これは今で言うヘイトスピーチよりも相当ひどい話で・・・。
時代というのもありましたが、思ったら即行動の晋作の無鉄砲さがいちばん際立つ話だと思います。
講和の席で古事記を語る!
文久3(1863)年、長州藩が下関海峡を通過するアメリカ、フランス、オランダ艦船に砲撃を加えたことで、三国にイギリスを加えた連合艦隊が報復し、武力衝突が起こりました。
結局外国の軍事力には敵わず砲台を占拠されるに至り、長州藩は講和のテーブルに付くことになりますが、この時使者に任ぜられたのが、当時脱藩の罪で監禁されていた晋作でした。通訳は伊藤です。
この時晋作は烏帽子と直垂、陣羽織を身に着けてやって来ました。そしていきなり古事記の講釈を始め、日本の創生から語り始めたのです。
あっけにとられる相手方、伊藤の顔が目に浮かぶようですね。そもそも伊藤はどう訳したのか・・・。
連合国の通訳を務めたアーネスト・サトウは、交渉時の晋作の様子を「負けたくせに傲然として怒っており、まるで魔王のようだった」と言っています。
「砲撃したけど何か文句ある?」と晋作の顔には書いてあったのかもしれませんね。とはいえ、相手の条件をほとんど呑んだ晋作が領土の租借だけは拒否したことで、日本が外国の租界になることは免れたと伊藤は回想しています。
金はないが軍艦が欲しい!
幕府による長州征伐の手が迫る中、晋作はわずか84人で功山寺において挙兵し、幕府への恭順派を追放して藩の実権を握ります。
その後、藩の了解なく長崎で軍艦を購入してしまいました。その料金3万6000両、今で言う数億円にもなったと想像できます。
しかしこれを晋作自身が購入するはずもありません。そもそもそんなお金はないのですから。
では、支払いはというと・・・藩です。
後で届いた法外な請求に、事務方は気絶しそうになったはずです。晋作という人には、公金という概念がなかったようですね。
晋作のやることは常識やルールという概念を飛び越えており、それに対して人々は怒ったり反発したりするよりも、呆気に取られていたようです。問題を起こし謹慎させられること度々でしたが、藩は結局彼を許し、頼りにしました。それだけすごい男だったのですね。
(xiao)
参照元
しながわ観光協会
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