名だたる戦国武将のなかでも、黒田官兵衛(孝高)の人気は高い。信長・秀吉・家康と天下人3代に仕え、2014年にはNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の主役にもなった。そのタイトルからも分かる通り、一般的には「豊臣秀吉の軍師として活躍した」と強くイメージされがちだ。
だが、今さらではあるが、官兵衛は本当に「軍師」だったのか。いや、本当に彼を「軍師」と呼んで良いのだろうか。なぜなら、まず日本史上における確かな史料には「軍師」という言葉がいっさい出てこないからである。そういう役職も、もちろん無かった。
結論からいえば「軍師」とは呼ばれなかった
吉凶や縁起を占った「軍配者」とか、お目付役の「軍監」と呼ばれた人はいたが、一般に連想される「軍師」とは役割が異なる。結論から言えば、黒田官兵衛も生前に「軍師」と呼ばれたことは一度もなかったことになる。
では、彼はどういう武将だったのか。前半生においては播磨の有力豪族、長じては羽柴秀吉の部将。後半生は豊臣政権下の将(軍事指揮官)であり、外交官といったところだろうか。とくに「外交官」としての働きは印象深く、たびたび表舞台に立っている。
天正3年(1575年)、姫路城代を務めていた官兵衛は織田信長への臣従を、主君の小寺政職(まさもと)に進言。やがて羽柴秀吉との交渉を経て、信長への臣従を決めた。以後、江戸時代まで続く黒田家の繁栄は、この官兵衛の機転と外交的な働きが原点になったといえよう。
官兵衛はそれをきっかけとして、播磨周辺の小豪族の多くを信長方に寝返らせるための交渉を繰り返し、次々と成功にこぎつけた。また、とくに備前の大名・宇喜多直家を味方につけた功は大きい。
もっと評価していい!外交官としての比類なき活躍
天正18年(1590年)、秀吉の天下統一を決定づけた小田原攻めで、官兵衛は小田原城へと赴いて北条氏政・氏直父子に降伏をうながす。結果、武力衝突を起こさずに無血開城させるという大手柄を立てて見せた。
このとき、官兵衛は北条氏直から『吾妻鏡』(鎌倉時代の歴史書)を贈呈された。この版本はのちに黒田家から徳川家へ譲られ、その写本が現在も「国立公文書館」に重要文化財として伝わっている。
さらに文禄2年(1593年)、文禄の役(朝鮮出兵)の最中、官兵衛は現地にいる武将たちの意向を伝えるため、朝鮮半島から戻ってきて秀吉に謁見した。ここでも官兵衛は外交的な役割を諸将から期待されていたことが分かる。
しかし、これは失敗した。自身が立案した作戦にこだわる秀吉の勘気を被り、領地を召し上げられた挙句、追い返されたのだ。これ以降、官兵衛は豊臣政権の中枢から外されてしまう。
ルイス・フロイス『日本史』によれば、このとき官兵衛は「私の権力、武勲、領地、戦で得た多年の功績、すべて水の泡となった」と宣言して隠居・剃髪し、「如水軒円清」と名乗る。これが「黒田如水」(じょすい)という名乗りの始まりだった。秀吉の怒りを買い、死を覚悟しての出家であったが、のちに秀吉に許されて一命は助けられている。
このように、官兵衛は諸大名らとの交渉役を任されたほか、もちろん播磨時代から戦場での実戦経験も多く積んでいる。賤ヶ岳の戦いにも従軍して大功を立てた。秀吉のそばに居て助言をするばかりではなく、あくまで大名として、部隊長として、彼自身が軍を率いていたのである。
「ご運が開けました」という名台詞の出どころは?
では、後世なぜ「軍師」と呼ばれるようになったのか。まず、もっとも影響力が強いと思われるのは『黒田家譜』(黒田家の公式歴史書)の記載だろう。「豊臣秀吉に備中高松城の水攻めを提案した」とか「中国大返しを企画した」という、官兵衛が建策した作戦といわれるものの多くはこの書が出どころといっていい。
しかし、この『黒田家譜』の成立は元禄元年(1688年)。後世に広まった軍記物より比較的成立が早いとはいえ、大名・黒田家の祖ともいえる官兵衛は神のような扱いで書かれ、彼の作戦が万事成功したかのように記述されているため、そのまま信じてしまうのは少し危うい。
また、それとも関連するが、もうひとつは備中高松城を包囲中に、京からの飛脚で「本能寺の変」を知ったときに秀吉に囁いた「ご運が開けました」という言葉。これは大河ドラマでも大きな見せ場になった。いかにも軍師、あるいは策士を連想させる台詞だ。
この台詞の出どころは、江戸時代の書物『老人雑話』。戦国時代の医師・江村専斎の談話の聞き書きであるため、すべてを鵜呑みにできないとはいえ相応の信頼性もある。
『川角太閤記』(1623年ごろ成立)にも「殿様は、御愁嘆のようにお見受け申しまするが、御底心を推量つかまつる。めでたいことの出て来たものよ。御博打を遊ばされませ」とある。ご運が・・・とは述べていないが、やや似たニュアンスだ。ただし、これを言うのは備中高松城攻めのさなかではなく、大返しで姫路城まで退いてからのことになっている。
「三国志」など中国の古典の流行も強く影響した
こうした江戸時代に流行った軍記物の影響は強い。その最たる逸話が『絵本太閤記』に記された秀吉の「太閤七度通い」の逸話だろう。これは、美濃随一の軍略家と評判の竹中半兵衛(重治)を配下にするため、秀吉が栗原山にある彼の庵を7度も訪ねたというエピソードである。竹中半兵衛は「二兵衛」として官兵衛と並び、後世によく「軍師」と称される存在だ。
もちろん確かな史料にそんな話は記されていない。これは中国の古典『三国志演義』の中で、劉備が諸葛亮を軍師として迎える「三顧の礼」をアレンジしたもの。江戸時代になると『史記』『三国志演義』『水滸伝』などが広く読まれ、その影響を受けた軍記小説が世に出回ったのである。
秀吉の立志伝も人気で、それを作成するにあたっては劉備と諸葛亮の関係のように、秀吉にも良きアドバイザーがいたほうが都合がいい。そこで半兵衛を諸葛孔明のような「軍師」として立たせたのだ。
しかし、半兵衛は天正7年(1579年)に36歳の若さで陣中で没してしまう。話の都合上、それと入れ替わる形で秀吉陣営で頭角を表した官兵衛が秀吉の新たな軍師とされ、活躍するという筋書きが作り上げられていったわけである。
ただ、官兵衛の「軍師伝説」は、まったくの作り話でもないようだ。ルイス・フロイス『日本史』にもそれを裏付ける一節がある。
「関白(秀吉)の顧問をつとめる一人の貴人がいた。彼は優れた才能の持主であり、それがために万人の尊敬を集めていた。山口の国主(毛利輝元)との間の和平は、この人物を通じて成立したのであり、彼は播磨に非常に多くの封禄を有している」
宣教師・フロイスが好意的に記しているのは、官兵衛がキリシタン大名だったからでもある。ただ、それを差し引いても官兵衛は有能であり、さまざまな物事に精通していた人物だったことが分かる。「播磨に封禄」とある通り、豊前に領国をもらう前から、時には秀吉のそば近くで軍事顧問の役割も果たしていたようだ。
前述した「三顧の礼」で知られ、軍師の代名詞といわれる中国・三国時代の諸葛亮(孔明)は、実際に「軍師中郎将」「軍師将軍」という役職に就いていた(正史『三国志』「蜀志」)。彼は外交も担当した有能な政治家であったし、後半生は軍事指揮官として蜀の大軍を率いて陣中に没した。その生きざまは違えど、才能や働きぶりは、どこか官兵衛と共通する部分も感じさせる。
諸葛亮と官兵衛に見出せる共通性。「軍師」という言葉の捉え方は人それぞれに違いはあるが、現代的観点から官兵衛を「軍師」と呼ぶのも、あながち間違いではないのかもしれない。
文・上永哲矢
大河ドラマ「軍師官兵衛」
放送日時:2019年10月14日(月)放送スタート 月-金 朝8:00~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/kanbee/
<関連記事>
【主演・岡田准一】大河ドラマ「軍師官兵衛」2019年10月CS初放送スタート!
【黒田官兵衛の家臣】長政の元でも活躍した黒田八虎とは?
【父・官兵衛にも劣らぬ活躍】東軍一番の功労者だった黒田長政
【意外に多い?】官兵衛、大友宗麟…戦国時代の有名なキリシタン大名たち
コメント