聖徳太子といえば、数々の伝説から超人的なイメージを持たれる方も多いのではないでしょうか。そのため、最近では実在しなかったという説さえあるほどです。実際の聖徳太子は皆さんのイメージとは全く異なる人物であった、という可能性も充分考えられますね。伝説の中の聖徳太子に加え、史実での聖徳太子の姿を追ってみましょう。
聖徳太子が畏れられた「片岡山伝説」
聖徳太子の伝説の一つに尸解仙(しかいせん)が登場する逸話があります。尸解仙というのは、死後に生き返り、蝉が殻を抜け出すように肉体が移動し、離れた土地で仙人になることを指します。この尸解仙が重要なキーワードとなるのが、『日本書紀』の推古21(613)年の記事です。
聖徳太子が大和国葛城(現在の奈良県北葛城郡王寺町)の片岡山を遊行していたところ、飢人が道に横たわっていました。食べ物を与えたり、自身が脱いだ衣服を被せてあげたりしていましたが、翌日には亡くなってしまいます。聖徳太子は、この飢人を墓に埋葬し、固く封じさせました。
しかし、数日後に聖徳太子に派遣された従者が墓を確認すると、遺体は消えており、聖徳太子の衣服は棺の上に畳んだ状態で置かれていたといいます。誰かが墓を動かし、飢人の遺体を取り出したというわけではありません。つまり、飢人は尸解仙、仙人になったということになります。
これが「片岡山伝説」と呼ばれる話ですが、聖徳太子はこの飢人が決して凡人ではなく、「真人」(人間の理想像)であったということに気づいていたのです。「真人」であることを見抜いていた聖徳太子に対し、人々はますます畏れかしこまったそうです。
ちなみに後世では、この飢人が禅宗の始祖である達磨であったという説もあるのだとか。
史実としての聖徳太子(厩戸皇子)の出生
聖徳太子は敏達3(574)年、橘豊日命(のちの用明天皇)と穴穂部間人皇女の第二皇子として誕生。そして、推古30(622)年に死去(薨去)しており、この聖徳太子の生年と没年は史実である、といわれています。
『日本書紀』においては、聖徳太子が「厩戸皇子」という名で出生記事が書かれており、母である穴穂部間人皇女が厩(馬屋)の戸のところで出産したことなどが記されています。これは有名な話ではないでしょうか。ただし、この『日本書紀』の出生記事は、全てが史実だというわけではなく、伝説化された部分もあります。
「厩戸皇子」という名前に関して、馬小屋の前で生まれたことが由来だと、一度は聞いたことがあるかもしれません。しかし名前に関しても諸説あり、優れた馬飼の技術をもった渡来系氏族とのつながりがあったことから、「厩戸」と名付けられたという指摘もあります。
「冠位十二階」と「十七条憲法」は本当に聖徳太子作なのか?
推古朝の改革として、冠位十二階の制定(603年)に加え、十七条憲法の作成(604年)を外すことはできないでしょう。簡単にいえば、冠位十二階は諸臣らに冠位を授けるというもので、十七条憲法は国としてのルールを定めたものですね。
ご存じのように、これらの制定には聖徳太子が関わっているとされています。しかし、実際は聖徳太子が単独で行ったものではなく、蘇我馬子とともに作り上げたという考えもあります。どちらにしても、聖徳太子が携わったことには違いなく、その功績は偉大です。
結局、聖徳太子はいるのか?いないのか?
なお今日に伝わる「聖徳太子」は時の権力者らによって創作されたものだとする学説もあります。現在の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」と表記されているそうで、厩戸皇子は実在しているが、「聖徳太子」としての伝説については多少脚色されたのでは?とみられているようです。
聖徳太子に関する書籍は数多く出版されていますので、聖徳太子の伝説について詳しく知りたいという方は、ぜひ手にとって読んでみてはいかがでしょうか。最近の教科書で、どのように紹介されているのかを見てみるのも面白いですよ。
(オオハシケント)
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