長崎の出島など一部を除き海外との交流が厳しく制限されていた江戸時代、日本人が海外に渡航することは原則として禁止されていました。しかし、そのような時期に未知の国であったロシアに渡り、無事に帰還した人物がいます。それが、白子(現在の三重県鈴鹿市)の港を拠点としていた廻船問屋の船頭・大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)です。
今回は、光太夫のうまれから船頭になるまで、ロシアへの漂流、帰国への道のり、帰還後の出来事などについてご紹介します。
うまれから船頭になるまで
過酷な運命を辿った光太夫ですが、もともとは恵まれた環境でうまれました。船頭になるまでの人生を振り返ります。
裕福な商家にうまれる
光太夫は、宝暦元年(1751)伊勢亀山藩南若松村の亀屋四郎治家に次男として誕生しました。幼名・兵蔵。四郎治家は船宿を、母方の清五郎家は酒造業・木綿商などを営んでおり、光太夫は裕福な環境でうまれたようです。
しかし、幼少期に父が亡くなり、四郎治家は姉の婿養子が家督を相続。光太夫は母方・清五郎家の江戸出店で奉公しました。
白子の廻船問屋の沖船頭に
安永7年(1778)光太夫は亀屋分家・四郎兵衛家の養子となり、亀屋四郎兵衛と改名。伊勢に戻ったあとは、次姉の嫁ぎ先にあたる白子の廻船問屋・一見諫右衛門(一見勘右衛門)の沖船頭・小平次(沖船頭大黒屋彦太夫)に雇われ、船頭として働きます。やがて光太夫は沖船頭(船長)に取り立てられ、大黒屋光太夫と称するようになりました。
漂流の末、ロシアの地に
7か月の過酷な漂流
天明2年(1783)12月、光太夫は16人の乗船員とともに、紀州藩の囲米や木綿を積んだ船・神昌丸で伊勢国の白子浦から江戸に向けて出航しました。しかし、駿河沖付近で暴風に遭い、なんとか転覆だけは免れたものの、あてもなく海上をさまようことになったのです。過酷な漂流は約7か月も続き、やがて日付変更線を越えてアムチトカ島へと漂着しました。
アムチトカ島からの脱出
アムチトカ島には、先住民のアレウト人や、毛皮収穫のため滞在していたロシア人などがいました。光太夫は彼らとの交流を通じてロシア語を習得し、なんとか命をつないで生き延びます。そんな中、ロシア人たちを帰還させるための船が到着目前で難破。帰還どころか漂流民が増える事態となりました。そこで光太夫は、難破船の材料で脱出用の船を造り、船員やロシア人たちとともに島を脱出したのです。それは島に漂着してから4年後のことでした。
帰国を目指した進路
光太夫の一行は、日本への帰国を夢見ながらロシア圏内を進んでいきます。それはとても過酷な進路でした。
カムチャツカからオホーツクへ
アムチトカ島から去った一行は、厳しい寒さの中を先に進みます。このとき生き残っていた仲間は9人ほどで、早く帰国したいと思うものの、当時のロシアはイルクーツクにシベリア総督府が置かれており、その指揮に従う必要がありました。一行は、カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由してイルクーツクを目指します。慣れない生活をしたり餓死寸前に追い込まれたりしながら窮地を潜り抜けた一行は、カムチャツカで3人の病死者を出し、オホーツクに着くころには6人(光太夫、磯吉、小市、新蔵、庄蔵、九右衛門)になっていました。
シベリア第一の都市・イルクーツク
シベリア第一の都市・イルクーツクに辿り着いたのは、白子の港を出てから7年が過ぎたころのことでした。マイナス50度を超える厳寒を切り抜けたものの、九右衛門は病死し、新蔵も大病にかかり、庄蔵は凍傷にかかった片足を切断する事態に陥ります。またイルクーツクの総督は、光太夫らの帰国願いを握りつぶし、日本語教師になることを強制しました。これを拒否すると生活費を打ち切られましたが、日本に関心が深い自然科学者キリル・ラクスマンとの出会いにより、なんとか帰国したいと願う彼らに光明が差し込みます。光太夫はキリルの助言を受け、女帝エカテリーナ2世に直接帰国許可を願い出ることを決意しました。
女帝エカテリーナへの謁見
寛政3年(1791)光太夫はキリルに随行してロシアの首都・サンクトペテルブルグに向かい、女帝エカテリーナに帰国願いを提出しました。謁見が許可されたのはそれから4か月後のことで、エカテリーナは「ベンヤシコ(かわいそうに)」と言い、正式に帰国を許可します。これにより今までとは一転して来賓待遇となった光太夫は、出発までモスクワを見物したりエカテリーナの文化的事業に協力したりしました。こうして帰国にこぎつけたものの、キリスト教に帰依して日本語教師となっていた庄蔵と新蔵はロシアに残留します。別れを惜しんだ光太夫、小市、磯吉の3人は、使節となったキリルの息子アダム・ラクスマンとともに、ロシア船・エカテリーナ号で日本に向かったのでした。
漂流民送還と日露交渉
念願だった帰国を果たした光太夫ですが、その後はどのように生きたのでしょうか?
根室を経て江戸へ
漂流から約10年、光太夫・磯吉・小市の3人は根室に帰還しますが、小市はその地で死亡、残る2人は江戸に送られます。この漂流民の返還は、ロシア側にとって極東進出の一環でもありました。鎖国していた日本と通商関係を樹立することが本当の目的だったのです。
第1回日露交渉に続き2度の会談を行った幕府は、ロシア側の公文書は受理せず長崎入港許可証(信牌)を与えます。ラクスマンはこれをロシアに持ち帰り、その後改めて、通商関係樹立交渉の使節が長崎に来航しました。
『北槎聞略』の編纂
一方、江戸に送られた光太夫と磯吉は、幾度となく取り調べを受けることになります。江戸城内の吹上上覧所にも呼び出され、将軍・徳川家斉や老中・松平定信にも漂流中の詳細を尋問されました。その場にいた桂川甫周はそのときの様子を書き留めるだけでなく、以降もたびたび光太夫から事情を聞きとり、のちに『北槎聞略』11巻としてその内容をまとめています。この文献は、当時のロシアの風俗や習慣についての貴重な史料となりました。
薬草園での余生
その後、光太夫らは江戸・小石川の薬草園に居宅をもらい余生を過ごします。しかしそれは、外国の様子を語らないよう制約を受けての生活でした。それでも光太夫は、甫周をはじめとする知識人たちと交流をはかったり、妻を迎えて1男1女をもうけたりと、かなり自由に行動していたようです。また一時期は帰郷も許され、伊勢神宮への参拝も行ったといわれています。
日露の国際交流の先駆者
過酷な漂流の末、日本へ無事生還した大黒屋光太夫。彼は文政11年(1828)78才の生涯を閉じました。この当時のロシアは日本にとって未知の場所でしたが、そんなロシアの情報をもたらした彼は両国の交流における先駆者といえるでしょう。その波乱万丈な人生は、小説や漫画、歌舞伎などさまざまな作品で描かれています。
コメント