現在放送中のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」。9/24の放送より菅田将暉さん演じる虎松(のちの井伊直政)が登場し、ますます盛り上がりを見せています。先日の放送でついに徳川家康との対面を果たしましたが、史実ではどのような経緯で家康に拝謁できたのでしょうか?虎松が匿われてから井伊谷に戻り、家康と出会うまでを、資料提供として作品に携わる小和田泰経氏に伺いました。
三河の鳳来寺に匿われていたとされる虎松
永禄11年(1568)に城主の座を追われた直虎が、その後どうしていたのか、動静について記すものはありません。ただし、直虎の母祐椿尼は、夫直盛が桶狭間の戦いで討ち死にしたあと、落飾して龍譚寺内に松岳院という庵を建てて暮らしていました。そのため、直虎も、この松岳院において、母と生活していたものとみられています。
さて、そのころの虎松はというと、大河ドラマでは、父直親が殺害された以後もかわらず井伊谷に住んでいたことになっています。しかし実際には、直親の死後、後見役の新野左馬助に庇護されていて、左馬助が永禄7年(1564)に今川氏の合戦に借り出されて戦死したのち、引馬(浜松)にあったとされる浄土寺に逃れ、さらに三河の鳳来寺に匿われていたといいます。
そうしたなか、天正2年(1574)12月14日、直親の十三回忌法要が井伊谷の龍譚寺で営まれました。このときは、南渓和尚がとりはからい、虎松を鳳来寺から井伊谷に呼び寄せたといいます。仮に永禄7年に井伊谷を離れたとしたら、虎松はおよそ10年ぶりに戻ってきたことになります。
直虎が城主の座を失ってから、井伊谷のある遠江は、いったんは徳川家康が制圧していました。しかし、元亀3年(1572)には、甲斐の武田信玄が遠江へと侵入してきます。このとき家康は、三方ヶ原の戦いで信玄に敗れ、井伊谷は焼き払われてしまいました。直虎も井伊家再興を図ろうとしたのでしょうが、信玄の勢いに押され、手も足もでなかったにちがいありません。
ところが、翌天正元年(1573)4月、三河まで進出していた信玄が陣没し、武田軍は甲斐へと帰還しました。信玄は「三年間は喪を秘するように」との遺言を残していましたが、やがてその死は知られるようになります。南渓和尚が、直親の十三回忌法要にあたり虎松を井伊谷に呼び寄せたのも、信玄の死を契機に武田方の勢力が後退したことが背景にあったことは疑いありません。
「しの」が松下清景と再婚し、松下虎松に
永禄4年(1561)生まれの虎松は、井伊谷に戻ってきたとき、14歳になっていました。当時、14歳といえば元服、すなわち成人する年齢であってもおかしくはありません。とはいえ、井伊家は瓦解しており、虎松が仮に井伊谷へ戻ってきたとしても、居場所はなかったのです。そこで、直虎は、母の祐椿尼と相談して、虎松の母、すなわち直親の正室だった女性を再婚させることにしました。そうすれば、虎松は、しかるべき武家の養嗣子になることができたからです。
虎松の母の名前は、ドラマ上では「しの」といい、井伊氏の庶流にあたる奥山朝利の娘でした。その「しの」の再婚相手として白羽の矢が立てられたのが松下清景だったのです。松下清景は、織田信長の家臣となる以前の豊臣秀吉が一時的に仕えていたこともある遠江頭陀寺城主松下之綱の一族でした。ちなみに、この松下之綱は、桶狭間の戦い後、衰退していく今川氏から離反していました。
この松下清景の弟とされるのが松下常慶で、大河ドラマでも、ちょくちょく山伏の格好をしてでてきます。山伏というのは修験道の行者のことで、史実としても、常慶は秋葉山の山伏でした。ちなみに、秋葉山というのは、火防(ひぶせ)で知られた修験道の霊場であり、この秋葉山から勧請された神社があったことにより、東京の「秋葉原」という地名が誕生しています。
松下常慶は、たんなる山伏ではなく、諜報活動にも従事していたようです。井伊家の史料『井伊家伝記』には「物見」をしていたとあります。そのようなわけで、大河ドラマでも家康の諜報活動を支えているように描かれているわけです。山伏は、脚力もあり、また、諸国を旅していたため、実際、諜報活動に従事することが少なくなかったようです。大河ドラマの第1回でも、幼少の直虎(おとわ)が、密書をたずさえていた山伏の死体を発見するというシーンがあったことを覚えていらっしゃる方もいるでしょう。俗世から縁を切った存在として、僧侶や山伏は、自由に往来することができました。
「しの」が松下家に嫁いだのは天正2年以降ということになりますが、実際にはもう少し早かったかもしれません。いずれにしても、虎松は、母が再婚相手、松下清景の養嗣子として、松下虎松と名乗ることになります。ちなみに、この松下清景は、のち、井伊氏の家老になりました。
やはり鷹狩りの際に家康と出会っていた虎松
松下清景の養嗣子として浜松に暮らすことになった虎松が、どのようにして家康に出仕するようになったのか、その経緯については諸説あるため、はっきりしたことはわかっていません。江戸時代に新井白石がまとめた『藩翰譜』では、天正3年2月15日、家康が鷹狩りのために浜松城から出たとき、道ばたで見かけた若武者の素性を調べさせたところ、井伊直親の子だというので「不便の者かな、われに宮仕せよ」と仕官させたことになっています。江戸幕府の正史『徳川実紀』でも、鷹狩りの途次、「只者ならざる面ざしの小童」を見かけ、素性を調べさせたところ、井伊直親の子であると判明したため、登用したということになっています。
家康は、果たして偶然、鷹狩りのときに虎松を見かけたのでしょうか。この点、井伊家側の史料『井伊家伝記』には、「御小袖二つ、祐椿・次郎法師より御仕立遣わされ候なり。天正三年二月、初めて鷹野にて御目見遊ばされ候。」とあります。つまり、浜松城下の松下屋敷で暮らしていた虎松のもとに、直虎と祐椿尼から小袖が届けられ、虎松はこの小袖を着て家康に拝謁したというのです。小袖は、拝謁のための正装として用意されたものでしょう。そうしたことから、家康が偶然に虎松を見かけたのではなく、直虎らの奔走により、家康に拝謁する場が用意されたとみられています。虎松が家康に拝謁した場所は、鷹野という場所で、その字からして鷹狩りの場所と考えられます。鷹狩りの際に、虎松が家康に拝謁したのは、事実だったのでしょう。
このとき虎松は、15歳でした。虎松の父直親は、家康に内通した嫌疑により、今川方に殺されており、家康も、そのことは知っていたに違いありません。また、家康の正室築山殿は、井伊家の出身でした。井伊家の浅からぬ縁にあった家康は、当初、罪滅ぼしの意味で仕官させたのかもしれません。
しかし、虎松には力量があったのでしょう。家康に目を懸けられた虎松は、万千代という名前を与えられ、井伊氏に復姓することも認められました。こうして虎松は、井伊万千代と名乗るようになるのです。そして、家康に仕えたこの年、万千代は15歳で元服して直政と名乗り、井伊谷の本領も安堵されました。ここに、直虎の悲願である井伊家再興が達成されたのです。
(小和田泰経)
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