天下統一に突き進む織田信長が配下の明智光秀によって討たれた「本能寺の変」により、織田家の家臣たちは突如として主君を失う非常事態に陥りました。そんな中で開かれたのが「清洲会議(きよすかいぎ)」です。周辺諸大名との攻防が続く中、付け入る隙を与えない立て直しが喫緊の課題となる状況下、この会議では織田家の命運を握る重大なことが決められました。絶大なカリスマを失ったあとの歴史的な会議には誰が集い、誰が覇道を継ぎ、それが後の世にどのように影響していったのでしょうか。
今回は、会議の前後の状況や織田家の勢力図の変化などについてご紹介します。
清洲会議とは?その背景と概要
清洲会議は天正10年(1582)、信長の死を受けて織田家の後継者を誰にするか、領地をどう再分配するかについて話し合われた会議です。信長が桶狭間の戦いに出陣した時期に居城としていた尾張の清洲城(愛知県清須市)で行われたことから、この名が付きました。また、表記については「清須会議」とする場合もあります。
では、この会議に至る背景や、参加した武将たちについて見ていきましょう。
清洲会議が開かれた背景
天正10年6月2日の本能寺の変により、光秀は一躍「天下人」となりますが、弔い合戦を仕掛けた羽柴秀吉に敗れ、その天下はわずか13日で幕を閉じます。俗にいう「三日天下」です。
しかし、一夜にして主君と後継者の嫡男・信忠を失った織田家は、全方位的に支配地域を広げ、各地で攻防が続く真っただ中にありました。かたきが討ててよかった、だけで済む状況ではありません。諸大名の反転攻勢が起きる前に新体制を発足させる必要があるからです。そんな中で開かれたのが清洲会議でした。
会議が開かれたのは光秀の死からわずか12日後のこと。電車も自動車もない時代、しかも戦時中で各地に散らばった家臣たちがこれだけの短期間で集結したことを考えれば、この会議がいかに喫緊だったかということが想像できます。
会議に参加した武将たち
参加したのは織田家の根幹をなす4人の家臣でした。
■柴田勝家
信長の父・信秀のころから織田家に仕える猛将で筆頭家老。信長上洛以降の数々の覇業に名を連ね、対・上杉謙信の最前線となる越前を担当。
■丹羽長秀
政治面でも力を発揮し、勝家とともに織田家の双璧といわれた二番家老。なお、秀吉の苗字は丹羽の「羽」と柴田の「柴」を合わせたというのが通説。
■池田恒興(いけだつねおき)
幼少時から小姓として織田家に仕え、後に母が信秀の側室に迎えられたため、信長とは義兄弟の関係。信長の弔い合戦で功を上げ、家老となる。
■羽柴秀吉
のちに信長、徳川家康と並び称される三英傑の一人。類いまれな才覚で農民から立身出世し、「中国大返し」から弔い合戦を成して時代の寵児(ちょうじ)となる。
清洲にはほかにも家臣が集いましたが、会議への列席はならず、4人と肩を並べる家臣であった滝川一益も、直前の戦で敗走中だったため、間に合わなかったといわれています。
清洲会議で話し合われた議題
緊急招集となったこの会議のテーマは「後継者の決定」と「領土の再分配」の二つでした。それを決めなければ織田家が再始動できず、周辺諸国の反撃に対して後手に回るため、きわめて重大なことを一刻も早く決める必要があったわけです。
織田家の後継者問題
本能寺の変で信長の後継者だった嫡男・信忠をも失った織田家では、次男の信雄(のぶかつ)、三男の信孝がどちらも後継者を主張して譲らない状況でした。ここで秀吉が長子相続を論拠に信忠の嫡男・三法師(秀信)を推挙します。かたき討ちを成して発言力を強めていた秀吉の影響は大きく、これにより後継者は三法師になることで決着しました。
通説では、この後継者を巡って織田家内で対立があったとされていますが、近年ではそもそも三法師が継ぐこと自体は家臣で一致しており、そのため三法師の居城である清洲城が会議の場に選ばれたとする説も有力になっています。
織田の領地の再配分
領地は、いわば武将の力関係を示すこの時代の重要なバロメーターです。その大小は武将の実力や地位を内外に示すことになるため、再始動する織田家での序列を決める重要なものでした。
領地は多くの家臣に分配されましたが、ここでは会議に参加した4人について見てみましょう。
■柴田勝家
分配された領地:越前と長浜城、北近江3郡
加増:12万石
■丹羽長秀
分配された領地:若狭と近江2郡
加増:15万石
■ 池田恒興
分配された領地:摂津3郡
加増:15万石
■羽柴秀吉
分配された領地:山城・河内・丹波
加増:28万石
長秀、恒興は秀吉によるかたき討ちに参加しており、勝家は戦地までの遠さもあってこれに加わることができませんでした。拠点としての重要性などさまざまな側面もあるので、加増の数字が評価や序列の差に直結しているとは一概にはいえませんが、それでも勝家以外の3人がいわゆる「勝ち組」になった感は否めません。そして、秀吉に至っては勝家の倍以上の石高を得ており、この会議を機に秀吉が一気に権威を高めたのはいうまでもないでしょう。
会議がもたらした影響
弔い合戦に勝利し発言力を急速に強めた秀吉は、清洲会議においても後継者選びで意見を主導し、領地の再分配では古参の家臣たちをしのぐ拡充を果たしました。こうして織田家内のパワーバランスが崩れ、筆頭家老だった勝家の影響力が低下し、代わって秀吉がトップに躍り出ることになります。清洲会議を境に、織田家は勢力図が一変したわけです。
しかし、長く織田家に尽くしてきた勝家をはじめ、地理的な事情などで主君の無念を晴らす機に立ち会えなかった家臣らは、会議後に置かれた立場に満足するはずがありません。
後継者に決まった三法師がまだ幼少の身(3歳)であったこともあり、実質的に織田家を率いるリーダーの座を巡り、主に領土再分配における「勝ち組VS負け組」といった構図で内戦が勃発します。
そして起こったのが、旧織田家の筆頭・勝家と新織田家の筆頭・秀吉による「賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)」でした。これを制した秀吉が、天下統一への第一歩を歩んでいくのです。
信長の後継者を巡って……
信長の突然の死を受け開かれた清洲会議は、織田家の今後を話し合うだけにとどまらず、結果的に後の「天下」を左右する重要な意味合いを持つことになりました。群雄割拠の覇権争いが続いた戦国の世にあって、一族の内部の盛衰がこれだけフォーカスされるのは珍しく、近年には映画の題材にもなるだけの駆け引き、思惑、逆転の展開がちりばめられた、歴史的な出来事でした。
光秀が信長を討って天下人となった事変を契機に、秀吉が天下人となる“着火剤”の役割を果たした清洲会議は、いわば下克上に下克上を重ねた末の、時代の産物だったのかもしれません。
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