【稀代の天才軍師:諸葛亮】その生い立ちから功績・人物像がわかる

世界史
【稀代の天才軍師:諸葛亮】その生い立ちから功績・人物像がわかる

三国志にはさまざまな人物が登場しますが、その中でも特に高い人気を誇るのが諸葛亮(しょかつりょう)でしょう。三国時代の蜀漢の宰相として活躍した彼は、字(あざな)である孔明の名称でも親しまれています。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた諸葛亮。天才軍師と呼ばれた彼は、一体どのような人物だったのでしょうか。

今回は、諸葛亮の生まれや知られざる生活、彼の功績と人物像についてご紹介します。

諸葛亮の生まれと結婚まで

劉備のもとで活躍する姿が印象的な諸葛亮ですが、それ以前はどのような生活を送っていたのでしょうか。その生まれや生い立ちを振り返ります。

諸葛亮の生まれは定かではない

中国・山東省
諸葛亮の本籍があった徐州琅邪郡陽都県は、現在の山東省です。

諸葛亮の素性ははっきり分かっていません。本籍は徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省)ですが、出生地は不明とされています。
祖先は前漢元帝時代に司隷校尉(しれいこうい)という官位についていた諸葛豊。父親の諸葛珪も泰山郡の副長官でしたが幼いころに死去しています。兄弟には、のちに呉へ仕えるようになる兄・諸葛瑾、ともに蜀漢に仕えた弟・諸葛均がおり、その他にも妹がいたようです。

晴耕雨読の生活をしていた

諸葛亮は幼いころに弟とともに徐州から南方へと移住したのち、荊州で自給自足しながら勉強するという晴耕雨読の生活を始めました。この頃には、自分は斉国の政治家・管仲や燕国の武将・楽毅に匹敵する人間だと豪語していたようです。
また諸葛亮はこの時期に地元の名士・黄承彦の娘と結婚しています。この娘は美人ではなかったため、器量の悪い娘を進んで娶ることを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになりました。しかしこの結婚により、諸葛亮はさまざまな人脈を手に入れたのです。

三顧の礼によって劉備に迎え入れられる

三顧の礼の様子
明の時代に描かれた、三顧の礼の様子です。

静かな生活を送っていた諸葛亮ですが、あるキッカケにより状況が変わります。諸葛亮の人生を変えた「三顧の礼」とはどのようなものだったのでしょうか。

三顧の礼とは?

諸葛亮が晴耕雨読の日々を送っていたころ、友人・徐庶は劉備玄徳のもとに出入りしていました。この徐庶が諸葛亮のことを話したところ、劉備は興味を示し「諸葛亮を連れてきてほしい」と頼みます。しかし徐庶が「自分が呼んだ程度では来てくれない」と答えたため、劉備は諸葛亮の元に直接足を運びました。1度目も2度目も留守で会えず、3度目でようやく会うことができた劉備は、漢王朝復興のために力を貸してほしいと伝えます。こうして劉備の熱意にうたれた諸葛亮は、臣下になることを決めたのでした。

この頃の劉備は40代で、既に天下に名を挙げていました。一方の諸葛亮は一部の人間にしか知られていない20代の若者。目上の者が格下の者のもとへ3度出向いてお願いしたことから、この出来事は「三顧の礼」と呼ばれるようになりました。

「天下三分の計」を披露した

劉備に仕えることとなった諸葛亮は、中国全土の統一を目指していた劉備に漢王朝再興の方策を訪ねられ「天下三分の計」を披露します。
この当時もっとも勢いを持っていた曹操は、あと少しで中国統一を果たせる状態でした。そこで諸葛亮は、まず劉備が身を置いている荊州を足掛かりに隣の益州の覇権を奪い、劉備・曹操・孫権の3名で天下を分けることを提案します。その後、孫権と組んで曹操を倒し、機会を狙って孫権も滅ぼせば、漢王朝を復興できるというのが諸葛亮の考えでした。これを聞いた劉備はその知見の深さに驚き、諸葛亮に惚れ込んだのです。

関連記事:【劉備と三国志】三国鼎立の時代をつくった男の活躍と人物像

劉備のもとでの諸葛亮の功績

諸葛亮
三才図会に描かれた諸葛亮です。

鋭い戦略を披露した諸葛亮は、その後も劉備のもとでさまざまな功績を残していきます。彼を取り巻く戦いにはどのようなものがあったのでしょうか。

曹操軍に勝利した赤壁の戦い

建安13年(208)曹操軍と孫権・劉備連合軍による「赤壁の戦い」が起こりました。この戦いは「天下三分の計」の序章だったといえます。
華北平定に成功し丞相となった曹操は、劉表の治めていた荊州を攻め始めました。諸葛亮は孫権のもとへ向かうと、劉備陣営と結託して曹操と戦うよう説得し、見事同盟を成立させます。
曹操軍80万に対し、孫権・劉備連合軍約5万という圧倒的な戦力差がありましたが、孫権陣営の火攻めや疫病の流行などにより、曹操軍は敗走。孫権・劉備連合軍の大勝利に終わりました。

夷陵の戦いとは?

その後、劉備は漢中を手に入れますが、留守中に義兄弟の関羽を殺され荊州が奪われてしまいます。そんな中、魏では曹操が死去し、その子・曹丕が魏王朝を建国。劉備はこれに対抗して蜀漢を建国し、諸葛亮は丞相・録尚書事となりました。

2年後、関羽を殺された復讐に燃える劉備は、呉軍に奪われた荊州へと進軍(「夷陵の戦い」)。快進撃を続ける蜀漢軍でしたが、呉の陸遜による作戦で大敗を喫し、白帝城へと敗走します。そして失意のあまり病になった劉備は、白帝城で亡くなってしまいました。
『三国志演義』に描かれる諸葛亮は荊州へ進軍しようとする劉備を止めようとしていますが、史実では諸葛亮はこの戦いを止めなかったのだそうです。義に厚い劉備の性格をよく知っていたからこそ、この戦いを止めることはできないと感じていたのかもしれませんね。

北伐を決行する

劉備は死ぬ間際、諸葛亮の才能を称えるとともに、自分の子・劉禅にその器があれば補佐し、もし才能がなければ諸葛亮が国を治めるよう言い残しました。
これに感涙した諸葛亮は蜀のために働こうと誓い、漢王朝再興という劉備の遺志を継いで北伐を決行します。しかし国力の差は歴然。地形を活かして有利に戦いを進めることもあったものの、食糧不足などに悩まされ目的の長安には辿りつけませんでした。
第五次北伐は持久戦にもつれこみ長期に渡って魏軍の司馬懿と対陣しましたが、諸葛亮はその陣中でついに病死してしまいます。北伐はその後も繰り返されましたが、成功せず蜀の国力は低下していきました。

諸葛亮の人物像について

諸葛亮の置物

劉備によって見いだされた諸葛亮は、最期は劉備の悲願達成に人生を捧げることとなりました。そんな諸葛亮の人物像とは、どのようなものだったのでしょうか。

身長がとても高かった

さまざまな軍略で活躍した諸葛亮ですが、プライベートの詳しい情報は少なく、不明確な部分も多いようです。ただし、180cm以上の高長身だったことだけはわかっています。
昔の中国の単位はよく変わっていたため、時代によって多少の誤差があります。諸葛亮の身長は8尺とされており、後漢の尺度だと184cm、魏・西晋の尺度だと192.8cmとなっています。

『三国志演義』に描かれる諸葛亮

『三国志演義』は正史をもとに書かれた歴史小説で、登場人物の活躍や逸話については誇張されている部分があります。
この小説の中の諸葛亮は、無理難題も簡単に成し遂げてしまう完璧な人物です。祈祷で風を吹かせたり予言を的中させたりと神通力や占術にも長けており、人知を越えた超人として描かれているのです。『三国志演義』は劉備が主役となっているため、その側で活躍した諸葛亮もダイナミックな描かれ方をしたといえるでしょう。

天才軍師として知られる

諸葛亮は天才軍師として知られ絶大な知名度を誇っていますが、不明瞭な部分も多くその人物像についてはあまり知られていないかもしれません。漢王朝再興は果たせなかった諸葛亮ですが、劉備から国を託されるほど信頼の厚い人物でした。
三国志は現代でも人気が高く、ビジネスパーソンからも支持されています。諸葛亮なら現代をどう生き抜くのか、そんなことに思いを馳せながら、類い稀なる才能を発揮した彼の功績を振り返ってみてはいかがでしょうか。

 

<関連記事>
【キングダムから三国志まで】いっきに学ぶ中国の歴史
【三国志で人気の陸遜】人物像と彼の功績を振り返る
【曹操の息子】魏の初代皇帝:曹丕の生い立ちと人物像に迫る

Visited 1 times, 1 visit(s) today
READ  【天下統一の礎を築いた悩める王の真実】「昭王~大秦帝国の夜明け~」2018年8月日本初放送スタート!

コメント

タイトルとURLをコピーしました