慶応3年(1867)10月14日、京都二条城二の丸御殿にて、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が明治天皇に政権を返上する「大政奉還」が行われました。150周年にあたる今年は、各地で展覧会やイベントも開催されています。
「大政奉還」が実現するまで、たくさんの志士が活動していたことは言うまでもありません。今回は大河ドラマ「西郷どん」を始め、様々な幕末大河の時代考証を担当されている東京学芸大学大石学先生に、西郷隆盛と、「西郷どん」でも活躍まちがいなしの坂本龍馬について語っていただきました。倒幕派だった二人の共通点、あるいは相違点とは?
「開国」も「攘夷」も十人十色
――西郷隆盛と坂本龍馬は思想的な共通点はありますか?
大石「西郷は薩摩藩という公的な組織の中の人間、龍馬は土佐藩という組織を抜け出した自由人という点では異なります。しかし、外国の先進性を取り入れて日本という国を国際秩序の一員にしなければならないという点では共通しています。だからこその薩長同盟でした。
幕末は「攘夷」と「開国」、「尊王」と「佐幕」と二極的にとらえられがちですが、どちらともいえない勢力もあり、「開国」、「攘夷」も考え方は多様です。
例えば、攘夷派の巨魁・重鎮と言われる水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)は、「攘夷は不可能であることはわかっている」という内容の書状を福井藩主の松平慶永(春嶽/しゅんがく)に送っています。現在でも水戸の徳川ミュージアムには、彼が使っていた地球儀や世界地図など、ヨーロッパ伝来の品々がたくさん残されており、斉昭がヨーロッパの先進性をよく理解していたことがわかります。
彼が唱えた「攘夷」は、「大老・井伊直弼が結んだ日米通商条約は、力で屈服させられて結ばれた不平等なものである。世界の一員になるためには、日本もしっかりした態度で交渉に臨み、対等な条約を結ばなくてはならない」という主張です。何が何でも外国人を排除すべきという京都の朝廷などの「攘夷」とは異なるのです。
外国の先進性を理解した上での攘夷論者に吉田松陰がいます。松陰はアヘン戦争後の清の惨状を知り、欧米の脅威を正確に把握し、むしろ積極的に欧米の知識や技術を取り入れようとしていました。彼は兵学者の佐久間象山に師事し、洋学に強い興味を持っていました。黒船が初めて浦賀へ来た際、象山とともに見学しています。2度目に黒船が来航したときには、ついに黒船に乗り込み捕まったわけです。このとき、彼は、ペリーを斬りに行ったのではなく、世界を自らの目で見たかったのです。
このように外国を見たいと思う攘夷派は多かったのです。開明派藩主の島津斉彬(なりあきら)の薫陶を受けた西郷なども一時はこのような攘夷派でした」
西郷と龍馬の差は、思想ではなく組織力!
――明治維新をなしとげた西郷と志半ばで暗殺された龍馬…。その結末を分けたものはなんでしょう?
大石「龍馬の成長の一番大きな特徴は「視野の拡大」です。土佐にいるころは「西洋人の首を取る」と書状に書くほどの過激な攘夷思想の持ち主でした。その後、私費留学で江戸に出て勝海舟らと交流すると開国思想へと変わり、列島全体を視野に入れる「日本」という枠組みを強く認識します。さらに彼は世界的視野を獲得します。すなわち、海援隊の約規には「本藩(土佐藩)を脱する者及び他藩を脱する者、海外に志ある者、此隊に入る」と記されています。つまり龍馬は幕府や藩、さらには日本という枠組みを超越し、世界を視野に収めるまでになったのです。
一方、西郷は薩摩藩の下級武士、貧困層の出身で、斉彬に認められて才能を開花した人物です。薩摩藩という組織の中で生きてきたので、龍馬と出会うまでは「日本」よりも薩摩藩の利益を優先する「薩摩ファースト」でした。グローバルな枠組みは、8歳下の龍馬のほうが先に獲得していたと言えます。薩摩藩は最終的には倒幕派に回りますが、少なくとも篤姫を大奥に送り込んだ時点では、幕府の存続に協力していました。その後、薩長同盟の成立により、倒幕へとシフトしたのです。しかし、西郷は明治に至るまで、薩摩藩組織から抜け出すことはありませんでした。
さて、龍馬が暗殺された理由の1つに、彼が組織が苦手な自由人だったことが挙げられます。龍馬の思想や活動は多くの人に影響を与えましたが、最後は、幕府の追手がかかり、一人で宿を変えながら潜伏し、ついに伏見の近江屋で暗殺されてしまいます。龍馬の軽やかなフットワークや多彩な人脈はすばらしいですが、強力な政治組織は作れなかったのです」
学問交流によって育まれた様々な思想
――西郷や龍馬、桂小五郎は、薩長同盟の前から交流はあったのでしょうか?
大石「薩摩藩というと、薩摩弁がわかりにくいので他藩との交流が活発ではなかったなどと言われますが、そのようなことはありません。西郷も加わったように、参勤交代で多くの薩摩藩士たちが江戸と薩摩を往復し、江戸では藩校や私塾を通じた幕臣や他藩士などの交流もありました。江戸時代は藩ごとに厳しく分断されていたわけではなく、経済や文化・教育などを通して人々の交流が盛んだったのです。
特に、諸藩の中級、下級藩士たちや脱藩者の交流・ネットワークは幕末の原動力になったといえます。薩摩藩家老の小松帯刀などの上級武士は藩を背負っているので、行動や言動に多くの制約がかかりました。自由に意見が言い合える中・下級武士や浪人たちの議論を、藩が採用したり、参考にする。彼らの自由な議論の場も、「江戸の達成」のひとつと言えるでしょう。
ただ、彼らの活動には、デメリットもありました。知人ネットワークに基づくサークルですから、リーダー不在の場合が多い。例えば、池田屋事件の場合、新選組は少人数ながら強力な組織や指揮系統を通じて、メンバーに的確な指示が出せますが、尊攘派志士グループは、指揮系統が不明確なため、個々で戦ったのです。池田屋事件の一方的な結果は、新選組と尊攘派志士の組織・集団の性格の違いによるところが大きかったといえます。
幕末は人々の個性や思想がはっきりと表れる時代ですが。しかし、幕府や薩長倒幕派との間に、政治思想の大きな違いがあったわけではありません。幕府も議会を構想し、大政奉還の後は徳川家を議長とする議会政治を目指していました。龍馬や薩長倒幕派の思想だけが飛びぬけていたわけではないのです。明治維新がなくても、徳川幕府自らがより民主的な国家を作っていたと考えられます。
西郷や大久保利通、龍馬、桂小五郎さらには、佐久間象山や吉田松陰など、大河ドラマ常連のキーマンの思想や人間関係を掘り下げていくと、新たな幕末シーンが見えてくると思います」
組織人と自由人。現代でもどちらの生き方が良いのかは迷うところ。何かを大きなことを成し遂げようと思ったら、龍馬よりも西郷のように仲間がいたほうが心強いのかも…。
さて、来年は明治維新150周年。戦いがなく平和な江戸時代を経て、力による開国を迫られ、知恵を絞って近代化を果たした日本。しかし、日本は世界の情勢にもまれ、軍国主義へと進んで行ってしまいます。「西郷どん」を見ながら、西郷隆盛が目指した理想は何だったのか、「攘夷」とは何か、今一度、幕末日本の政治思想を見直したいですね!
大石学(おおいしまなぶ)
1953年、東京生まれ。東京学芸大学卒業。同大学院修士課程修了、筑波大学大学院博士課程単位取得。現在、東京学芸大学教授・副学長。NHK大河ドラマ「新選組!」「篤姫」「龍馬伝」「八重の桜」「花燃ゆ」「西郷どん」の時代考証を担当。2009年に時代考証学会を設立し、同会会長を務める。10月4日に『なぜ、地形と地理がわかると幕末史がこんなに面白くなるのか』(洋泉社)発売。
編集協力/釘宮有貴子(株式会社KWC)
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