織田信長の乳兄弟で、幼少時より小姓として仕え、清洲会議では織田家の宿老のひとりとして参列した池田恒興。ちなみに、石井あゆみさん原作の漫画で、小栗旬さん主演、ドラマ・映画ともに大ヒットした『信長協奏曲(のぶながコンチェルト)』では、向井理さんが演じていました。周りの名だたる武将と比べると影に隠れがちな恒興ですが、実際はどんな武将だったのでしょうか?今回は史実の恒興をご紹介します。
信長とは乳兄弟で義理の兄弟
池田恒興は、天文5年(1536)、織田家家臣・池田恒利の子として生まれます。それより前の天文3年(1534)、恒利の主君である織田信秀に嫡男・吉法師(のちの織田信長)が誕生すると、乳母・養育係に恒興の母となる養徳院が選ばれます。どの乳母にも、生母の土田御前にも手を焼かせていたという信長は、養徳院にだけはよく懐いたそうです。養徳院はのちに信秀の側室になるので、信長と恒興は乳兄弟であり、義理の兄弟ということになります。
信長の重要な戦に参陣、地道に活躍
恒興は10歳の頃より、信長の小姓として仕えます。桶狭間の戦い、美濃攻略で戦い、姉川の戦いでは、丹羽長秀と共に徳川家康に加勢した功績により、犬山城主となります。以後も比叡山焼き討ち、長島一向一揆、信長が足利15代将軍義昭を破った槇島城の戦いなど、重要な戦に参陣。その後、信長の子・信忠の組下となります。
黒田官兵衛が有岡城の牢獄に捕らえられた荒木村重謀反の際には、信長に呼び戻され、有岡城の支城である花隈城を攻略。合戦の功績により、摂津国内に12万石を拝領し、兵庫城を築城します。このように地道な活躍により、地位を獲得していきます。
人生最大のハイライト?清洲会議
天正10年(1582)、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、恒興は中国攻めから引き返した羽柴秀吉に合流。山崎の戦いで右翼先鋒を務めて光秀を破ります。
この功績があってか、織田家の後継を決める清洲会議で、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀とともに織田家の宿老として列します(三谷幸喜さん原作・監督・脚本の映画『清須会議』では佐藤浩市さんが恒興を演じ、存在感を放っていました)。
この会議において恒興は、勝家らに対抗して、秀吉・長秀と共に信長の嫡孫の三法師(のちの織田秀信)を擁立。領地の再分配では摂津国の大坂・尼崎・兵庫にて12万石を領有。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いには参戦していませんが、美濃国内にて13万石を拝領し、大垣城に入ります。
最期は小牧・長久手の戦いで戦死
天正12年(1584)、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いでは、恒興は秀吉方として参戦します。勝利がかなった際には、尾張1国を約束されていたようです。緒戦で信雄方の居城だった犬山城を攻略した後、三好信吉(羽柴秀次)、恒興の婿である森長可、堀秀政と共に家康の本拠地・三河国を攻めようとします。
しかし、合戦の前半で鞍に銃弾を受け、落馬したことが災いとなり、長久手にて長可と共に戦死してしまいます。享年49。嫡男の元助も共に討ち死にしたため、家督は次男の輝政が相続。のちに輝政は初代姫路藩主となり、姫路城を現在も残る姿に大規模修築を行います。
地道に活躍するも、周りが凄すぎたためか、影に隠れてしまったような池田恒興。最後も運がなかったのかもしれませんが、物語を通じて世間に名が広まるのは、歴史好きの醍醐味でもありますよね。これをきっかけに、実際の恒興にも興味を持ってみてはいかかでしょうか。
(編集部)
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