関ヶ原の戦いに敗れ、領地を没収された西軍方で、ただ一人、元の領地を回復した戦国武将がいます。それは、福岡・柳川の立花宗茂。豊臣秀吉が、「九州の一物」とその武勇を絶賛した名将でした。
8月29日(火)放送のEテレ『先人たちの底力 知恵泉』では、「戦国武将・立花宗茂“ゼロ”からの復活術!」と題し、九州の戦国武将、立花宗茂を特集します。
秀吉から九州一と褒められた男
立花宗茂は、永禄10年(1567)、現在の大分県豊後高田市にあたる豊後・国東郡にて、大友氏の重臣・吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として生まれたとされます。
豊臣秀吉の九州平定で大活躍をした宗茂は、その功績が認められ、筑後国柳川13万2000石を与えられ、大友氏からの独立を許されるまでになりました。このとき秀吉は宗茂を「その忠義も武勇も九州随一である」と、高く評価したといいます。
しかし、その人生は関ヶ原の敗北で暗転! 6年にも渡る、どん底の浪人生活に陥るのです。
復活の鍵は家臣との結束と“自分磨き”
関ヶ原の敗北で改易された宗茂は、その器量を買われ、加藤清正や前田利家から家臣に誘われますが、それを断ります。当時の改易は、会社でいえば“倒産”の危機。そこから宗茂は、どのように奇跡の復活を遂げたのでしょうか?
今年発見された、宗茂が家臣に与えた鎧の袖から浮かび上がったのは、宗茂と家臣たちの結束でした。さらに宗茂は、食べ物にも困る暮らしの中で、弓や茶道の“自分磨き”を決して怠らなかったことがわかりました。
徳川幕府では、3代将軍・家光の供として狂言や和歌の芸事に活躍。将軍臨席の酒宴に出席できた時には、「5カ国を取ったほどに等しい!」と喜んだそうです。
戦国の“理想の上司”に学ぶ
元和6年(1620)、幕府から旧領の筑後国柳川10万9200石を与えられた宗茂は、関ヶ原に西軍として参戦し、一度改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名となりました。武の誉れから一流の芸事へ、時代に応じた変化をいとわず、大勢の大名から抜きんでた存在であり続けた成果と言えるでしょう。家や部下を守るため、今までの武勇にこだわらず、自分を変えた“理想の上司”像は、現代こそ学ぶべきなのかもしれません。
逆境に次ぐ逆境をはねのける、宗茂の知恵の真髄に迫った、8月29日(火)『先人たちの底力 知恵泉』の放送をお見逃しなく!
Eテレ【先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)】
放送日時:
2017年8月29日(火)22:00〜22:43
「戦国武将・立花宗茂“ゼロ”からの復活術!」公式HP:Eテレ「先人たちの底力 知恵泉」
http://www4.nhk.or.jp/chieizu/
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