室町時代、扇谷上杉家の家宰で、江戸城を築いたことで知られる太田道灌。彼の生涯と中世の江戸に関する資料を取り上げ、15世紀後半の関東の戦乱について紹介する企画展「太田道灌と江戸」が国立公文書館で開催されています。道灌についてはもちろん、徳川家康が入る前の江戸がわかる貴重な展示の見どころをご紹介します。
有能がゆえに謀殺された?悲劇の武将
太田道灌は、永享4年(1432)、関東管領上杉氏の一族・扇谷上杉家の家臣の家に生まれました。関東管領とは鎌倉公方を補佐する執事のことです。父・資清から扇谷家の家宰職を引き継いだ道灌は、鎌倉公方と関東管領の対立により発展した享徳の乱や長尾景春の乱で活躍をみせます。
そんな道灌の働きにより、扇谷上杉家の勢力は強まり、それとともに道灌の勢力も絶大なものになります。しかし、文明18年(1486)7月26日、主君である扇谷定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれた道灌は、入浴後を定正の重臣・曽我兵庫に襲われ、暗殺されてしまいました。これは、力が強くなりすぎた道灌を恐れた定正が自発的に暗殺したとも、扇谷家の力を弱めるため、同じく関東管領上杉氏の一族である山内顕定の画策に定正が乗ってしまったともいわれています。
今回展示される『太田家記』は、道灌の子孫である江戸太田氏の一族で、江戸時代に譜代大名となった掛川藩主太田家によって、18世紀初頭に作成された編纂記録です。道灌の父である資清から玄孫にあたる重正まで、6代の事績が記されています。関東の戦乱で活躍した道灌が、江戸時代に太田家の繁栄を築いた人物として位置づけられていることがわかる、貴重な資料です。
房総の千葉氏を抑えるために築かれた江戸城
享徳の乱にて、鎌倉から古河に移った足利成氏ら古河公方を封じるため、道灌は父とともに河越城(埼玉県川越市)を築城。さらに、古河公方側の有力武将である房総の千葉氏を抑えるため、道灌が築城したのが江戸城でした。
当時の江戸城は、「子城(本丸の漢語表現とされる)」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀で巡らせ、門や橋で結んでいたとされます。
『長禄年中江戸図』は、道灌が江戸城を築いた当時の江戸の様子を描いたとされる絵図で、今回展示されるのは文化3年(1806)に作成された写です。「溜池」など、道灌の時代には見られない地名が記されていますが、道灌が江戸城を築いた実績が、後世に注目されたことを示しています。
学者や歌人としても才能を発揮!
さらに道灌は、兵学を学び、特に当時の軍配者(軍師)の必須教養であった易学を修め、『孫子』や『呉子』などの武経七書にも通じていました。
道灌の兵法に「足軽軍法」と呼ばれものがあります。これは、それまでの騎馬武者による一騎討ちを排し、当時登場し始めていた足軽を活用した新しい集団戦術と論じられることが多いのですが、実は名称だけが残されているだけで、内容まではわからないようです。
また、歌道にも精通し、様々な和歌が残されています。このことから生まれたとされるのが「山吹の里」という伝説です。
これは道灌が、鷹狩の帰途に雨が降ってきたため、蓑を借りようと農家に立ち寄ったときのこと。女性が何も言わずに山吹の花を差し出したことに腹を立てた道灌が、後日『後拾遺和歌集』にある「七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞかなしき」という和歌にかけていることを知り、自分の無知を恥じて和歌を学ぶようになったという話です。今回はこの場面が描かれた『江戸名所図会』が展示されます。
今回は、鎌倉公方足利氏の動向を中心に、15世紀後半の関東の政治情勢が記された『鎌倉大草紙』など、動乱の時代を知ることができる貴重な資料も展示されます。
企画展が開催される国立公文書館から近くにある江戸城。道灌の生涯とその時代を知った後に回れば、また違った江戸城に出会えるかもしれません。
企画展「太田道灌と江戸」
開催期間:2018年1月13日(土)〜3月10日(土)
開館時間:午前9時15分〜午後5時
※入館は閉館の30分前まで
休館日:日曜・祝日
開催場所:国立公文書館
お問い合わせHP:国立公文書館
http://www.archives.go.jp/
(編集部)
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