城郭研究家・西股総生の【戦国の城・ネコの巻】第6回「城の形はネコ耳をめざす?」

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戦国の城の極意をライトに伝授するこのコーナーですが、今月は少し趣向を変えて幕末の話から。というのも先日、東京の駒沢大学で行われた第34回全国城郭研究者セミナーにおいて、「幕末の城郭」と題するシンポジウムが行われて、この内容がちょっと面白かったからです。

第34回全国城郭研究者セミナーの資料。
主催者側によるシンポジウムの趣旨説明では稜堡式築城の原理が説明された。
(写真提供:西股総生)

今回のシンポジウムでは、西洋の築城法をとりいれて幕末に築かれた五稜郭台場などのほかにも、戊辰戦争や西南戦争のときの野戦築城みたいなものまでが扱われていました。あまり知られていないかもしれませんが、実は戊辰戦争や西南戦争のときには、その場で地面を掘って土塁をかき上げたような即席の陣地みたいなものが、たくさん造られています。そうした野戦築城の跡を、丹念に調べて研究している人たちがいるのですね。

さて、幕末~西南戦争の築城を語る上で欠かせないのが、何といっても「稜堡式(りょうほしき)築城」です。稜堡式築城というのは、わかりやすくいうと、西洋の築城法を採りいれて造られた星形の城のことです。みなさんご存じ、函館の五稜郭が、その代表。
「稜堡」というのは、ネコ耳みたいなとんがりのことです。そのネコ耳が五つあるから五稜郭。函館にはネコ耳が四つの四稜郭(しりょうかく)というのもありますが、これは函館戦争の時に大鳥圭介が土塁と空堀で築いた砦のようなものです。

ネコ耳のような稜堡が五つある五稜郭。
幕府が蝦夷地防衛のために築いた。
(写真提供:函館国際観光コンベンション協会)

また、長野県の佐久市には龍岡城というミニ五稜郭があります。龍岡城は、松平乗謨(のりかた)が田野口藩1万6千石の陣屋として築いた城で、1866年(慶応2)に完成。乗謨は幕府の陸軍奉行・陸軍総裁などをつとめた人物で、西洋軍学に通じていたので、自分の陣屋を稜堡式に造っちゃいましたが、すぐに明治維新になってしまったのです(泣)。

では、稜堡式築城とは何でしょう? これは別に星形に意味があるわけでも、もちろんネコ耳で敵を幻惑させるためでもありません。稜堡式築城とは17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパで流行した城の築き方で、鉄砲や大砲の射線を隙間なく交差させて城を守るための形です。

幕末の頃には、もっと近代的な要塞が造られるようになっていたので、ヨーロッパでは稜堡式は時代遅れになっていましたが、日本では最新の洋式軍事技術として取り入れられました。しかも、どうやら日本人は、稜堡式築城の大事なポイントをよくわかっていなかったらしいのです。というのも、稜堡式では攻めよせてくる敵の歩兵を、鉄砲(小銃)だけではなく大砲を使って倒すように設計されているのですが、日本の稜堡式築城では肝心な場所に大砲が置けないようになっています。

稜堡式築城が発明された17世紀には、大砲の弾はただの鉄の固まりでした。でも、当時のヨーロッパの歩兵は、びっしり横に並んだ列をいくつも重ねて密集隊形をつくっていたので、横方向から低い弾道で大砲の弾を撃ち込むと、地面でバウンドした弾で敵兵たちをなぎ倒すことができました。また、「ぶどう弾」などといって、たくさんの小さな鉄球を束ねたような弾も使われました。

日本の戦国時代には、たくさんの鉄砲が使われるようになりましたが、大砲はあまり使われませんでした。大砲を使った経験があまりない日本人には、稜堡式築城の原理がピンとこなかったのかもしれません。
そのかわり、幕末の稜堡式築城では、虎口が枡形になっていたりします。そこは、自分たちのやり方を応用して、〝和風の味付け〟にアレンジしているわけですね。そう考えてくると幕末の稜堡式築城って、西洋料理を日本人の口に合うようにアレンジしてできた「洋食」みたいなもの、といえそうですね。幕末の日本人たちは稜堡式築城の図面を見て、日本の城で発達した「横矢掛り」のスゴイやつ、と思ったのかもしれません。

馬入峠の塁縄張り図。
関ヶ原合戦のとき上杉景勝が築いた防衛施設の一つ。
(作図:西股総生)

実は、戦国時代終わり頃の城の中には、稜堡式っぽい縄張りのものが時おり見られるのです。たとえば、関ヶ原合戦の時に上杉景勝が築いたといわれる、馬入峠(ばにゅうとうげ)の塁。馬入峠は、福島県の中通りから会津盆地に入るサブ・ルートの一つですが、ここに図のような土塁と空堀があります(山深い場所にあるので、慣れない人は無理に行かないこと)。
でも、土塁と空堀はあるのだけれど、曲輪がありません。「峠で敵を迎え撃つ」ことだけを考えて築かれた施設です。この馬入峠の塁、な~んとなくネコ耳っぽいですよね。よ~く見ると、土塁と空堀のラインが等高線に沿っているので、地形なりに造っていったらネコ耳っぽくなった、というのが真相でしょう。でも、この造りだと、峠に攻め登ってくる敵に、両側からクロスファイアを浴びせることができそうですね。

もっとすごいのが、茨城県にある塙(はなわ)城。塙城の歴史はよくわかっていませんが、江戸崎土岐氏という国衆が、豊臣秀吉の来寇に備えて築いた城のようです。この城は、台地の上にギザギザに折れ曲がった土塁と堀を築いています。鉄砲の射線を交差させて、敵を寄せつけないような造りになっているのが、わかりますか?

塙城縄張り図。
北条氏の下についた国衆の江戸崎土岐氏が築いた城と思われる。
(作図:西股総生)

残念ながら、この塙城も農家の裏手のものすごい藪になっている場所で、普通の人が見学に入るのはちょっと無理。でも、戦国時代終わり頃の関東や東北の城を見てゆくと、鉄砲の威力を最大限に発揮する方法を、ひたすら土木によって追い求めていたことがわかります。だとしたら、稜堡式築城の原理と同じようなところにたどり着くのは、自然ななりゆきだったのかもしれません。

もし、関ヶ原で西軍が勝ったりして、日本の戦国時代があと50年くらいつづいていたら、日本にも稜堡式とそっくりなネコ耳型の城が、出現していたかもしれませんね。

稜堡式築城はネコ耳をヒントに考案された、とネコ界では伝わっているにゃ。
(写真提供:いなもとかおり)

[お知らせ]
塙城について詳しく知りたい方は、西股総生著『「東国の城」の進化と歴史』(河出書房新社)をご参照下さい。香川元太郎さんのすばらしい復元イラストで、塙城がリアルに紹介されていますよ。

「東国の城」の進化と歴史
(河出書房新社)

また、スマホ用アプリ『ぽちっと東国の城』ではイラストの細部を解説しています!

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【 戦国の城・ネコの巻 】連載一覧
第5回「夏はゆるりと平城を」
第4回「本当は怖くない八王子城御主殿の滝」
第3回「天守って何だ!」
第2回「深大寺城どうでしょう?」
第1回「プロローグ」
【 城の本場は首都圏だった!? 】続100名城もあり!『首都圏発 戦国の城の歩きかた』が発売

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