近年「応仁の乱」関連や「観応の擾乱」についての書籍がヒットするなど、空前の中世ブームが到来しています。そんな中、室町幕府を牽引してきた足利15代将軍については、一部をのぞき、あまり知られていません。今回は、波乱万丈すぎる人生を歩んだ15人の将軍たちをダイジェストでご紹介します。
初代将軍:足利尊氏
室町幕府をつくった足利尊氏。はじめは鎌倉幕府の権力者・北条高時から一字をもらい「高氏」と称していましたが、やがて後醍醐天皇による倒幕運動が盛んになると、幕府を裏切りその滅亡に貢献。今度は天皇の諱「尊治」の一字をもらって「尊氏」と改名します。しかし、次第に後醍醐天皇の政権が世間から不評を買うようになると、挙兵して天皇を吉野へ追いやり、新たに光明天皇を擁立して室町幕府を開くのです。
これだけ聞くと、裏切りを繰り返した荒々しい武将のように思えますが、臨済宗の高僧・夢窓疎石は尊氏のことを「豪勇、慈悲、無欲の三徳を兼ね備えた人物」と高く評価しています。
2代将軍:足利義詮(よしあきら)
著名な尊氏と義満に挟まれ、どうしても影が薄い感じが否めない2代将軍足利義詮ですが、その生涯は、苦難と栄光に満ちた波乱万丈なものでした。
鎌倉幕府打倒を目指し、後醍醐天皇が兵を挙げた時に、足利家を代表して鎌倉幕府を攻めたのも義詮でした。その時、なんと満3歳!もちろん、家臣たちに支えられながらのこととはいえ、西国にいた尊氏の名代を立派に果たしたのです。尊氏の死後も、南北朝の争いの最中、家臣の離反などに苦しみつつ、37歳の若さで没します。
3代将軍:足利義満
足利義満といえば、南北朝の合一を図り、中国の明と貿易を行うなど、室町幕府を大いに発展させた将軍として有名です。武士では、平清盛以来となる太政大臣に任命されるなど、その権勢はゆるぎないものがありました。天皇家の血を引いており、後円融天皇の従兄弟でもあった義満の、最大の願いは皇位を奪うことにあったといわれています。とはいえ、自分が天皇になるのではなく、息子を天皇にするつもりだったようです。
しかし、義満は、あと一歩のところで病死します。あまりのタイミングの良さに暗殺説もささやかれました。
4代将軍:足利義持
父・義満から譲られて、わずか8歳で将軍となった義持。しかし、偉大なる父が生きている間は傀儡将軍に過ぎず、さらに父が異母弟・義嗣(よしつぐ)を愛したため、将軍でいることさえ危ぶまれていたという、かなり可哀そうな状態でした。
そのためか、義満の死後は、義嗣を死に追いやり、義満のはじめた勘合貿易を中止にするなど、父に反発するような政治を行いました。「永遠の反抗期将軍」と呼んでもいいかもしれません。
5代将軍:足利義量(よしかず)
父・義持に譲られ、17歳で将軍となります。しかし、そのわずか2年後に病死。その原因といわれているのが、人一倍好きだったお酒の飲みすぎ……。将軍になる2年前、14歳の時に、すでに父から飲みすぎを注意されていたといいますから、筋金入りの酒豪だったようです。それとも前将軍である父からのプレッシャーに耐え兼ね、飲まずにはいられなかったのでしょうか?
6代将軍:足利義教(よしのり)
5代将軍義量の死後も政務をとり続けた4代将軍義持が亡くなった時、跡継ぎとなる子どもはもういませんでした。そこで室町幕府の重臣たちはどうしたか、というと……なんと!くじ引きで次の将軍を決めるという空前絶後の手法をとります。その結果選ばれたのが、義持の弟・義教でした。
そんな消極的な形で選ばれた将軍でしたが、就任後は、将軍権力を高めるために武力を惜しまず投入。最後は、そんな義教の態度を恐れ、先手を打ってきた武将に暗殺されてしまいます。
7代将軍:足利義勝
父・義教の死の翌年、8歳で将軍に就任。ところが、そのわずか8ケ月後に亡くなってしまいます。大変な馬好きで、落馬により命を落としたともいわれていますが、近年は赤痢による病死説が強くなりつつあります。
8代将軍:足利義政
後継問題が応仁の乱の一因となった足利義政については、ご存知の方も多いでしょう。義政は、兄である7代将軍義勝の死を受けて7歳で家督を継ぎ、将軍に就任したのは14歳の時。こんな少年に幕府の運営ができるわけがありません。政治の主導権は母や乳母、そして重臣たちに握られてしまいます。成人後も現実逃避して芸術、文化の世界に生きるようになったのは仕方がないことなのかもしれません。
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