豊臣政権で家康と並び称される大名であり、加藤清正や福島正則ら武断派、石田三成・大谷吉継ら文治派双方からの信頼も厚かった前田利家。しかし、実際の利家は傾奇者としても有名でした。そんな彼を支え続けたのが、大河ドラマにもなり有名な妻・まつです。
12歳で利家に嫁ぎ、2男9女の子をもうけた妻・まつ
まつは12歳で従兄妹関係にあった利家に嫁ぐと、13歳で長女・幸を授かったのを皮切りに、何と2男9女をもうけます。
多産が多い戦国時代とはいえ、同一夫婦で11人も生んだのは、戦国最多記録でしょう。
よっぽど利家はまつに惚れていたのでしょうね。(まあ、まつの他にも側室は5人ほどいましたが)
また、まつは大変利発な女性でした。
清州城下に住んでいた時に、豊臣秀吉の妻・寧々、母・なかと親しくなります。この縁が、後年利家を助けることになるのです。
賤ヶ岳の戦いで利家は、柴田勝家の寄騎で秀吉と敵対していました。
しかし、秀吉と戦うのを嫌った利家は途中で戦線を離脱。勝家への義理と秀吉への情に板挟みになった末の決断でした。
この時、まつは秀吉の妻である寧々を通じ、秀吉に利家の赦免を働きかけました。
秀吉も利家は勝家の恩に報いようとした「律義者」であると、逆に利家への信頼を厚くします。
以後、利家は秀頼の傳役を任されるなど、豊臣政権で重きをなしました。
しかし、慶長4(1599)年に利家が亡くなると、天下の情勢は激変します。
前田家二代目・利長の苦悩
利家の後を継いだ利長は、一旦領地の加賀に帰りました。
この動きをみて、「前田家に謀反の疑いあり」と詰問したのが徳川家康です。完全に言いがかりでした。
「それなら受けて立つ」と考えた利長をまつは説得します。
徳川に逆らっても勝てない、と悟っていたまつは自ら人質として大坂に入り、利長の異母弟の利常に徳川秀忠の娘を貰うことで騒動を収めたのです。
家康からすれば、前田家が屈服すればよかったので、無事前田家はお咎めなしとされました。
まつには、亡き夫以外に家康に対抗できる人物はいないとわかっていたのでしょう。
以後、前田家は徳川政権下の外様大名としての道を歩み始めます。
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傾奇者の血が?三代目・利常
利長の苦渋の決断で加賀前田家は残りました。
その前田家の気骨を示したのが、跡を継いだ弟の利常です。
利常は利家譲りの傾奇者でした。
江戸城中にあった「小便禁止。違反者罰金黄金1枚」の立て札に「罰金惜しさに小便を我慢するものか」と看板に小便をかけたり、
病気で江戸城出仕を控えたことを老中から「先日は休みましたが、今日は気が向かれましたか」と皮肉られると、
「先日は疝気でここが痛かったのじゃ」と金玉を晒したりと逸話に事欠きません。
また、利常はいつも鼻毛を伸ばしていました。
そのことを家臣が忠言すると、「儂が馬鹿殿のようにふるまわねば、前田家は潰される。そのために伸ばしている」と応えたのだそうです。
利常は、兄・利長を襲った危機に大身・前田家の立場を理解したのでしょう。
前田家はまつの内助の功と、利家から受け継ぐ傾奇者のイメージを利用した細心と大胆の使いわけで、加賀百万石を保ったのです。
(黒武者 因幡)
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