天正10年(1582)、キリシタン大名である大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてヨーロッパへ派遣された天正遣欧少年使節。キリスト教への信仰を胸に旅立った彼らですが、帰国後、日本国内でのキリスト教を取り巻く状況は一変していました。厳しい環境の中、彼らはどんな道を歩んだのか。4人の少年たちのその後をご紹介します。
天正遣欧少年使節とは?
天正遣欧少年使節は当初、日本に布教に来たイエズス会修道士ヴァリニャーノの発案によるものでした。その目的は、ローマ教皇やスペイン・ポルトガル両王に日本での布教活動の援助を依頼するほか、最たるものは少年たちにヨーロッパのキリスト教世界を見せ、そのすごさを彼らを通して日本に知らしめるというものだったのです。
使節に選ばれたのは、伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルティノの4人。彼らは有馬晴信が建設した神学校・セミナリヨで学んでいました。
使節と随行団は、天正10年(1582)に長崎を出発し、マカオやゴアを経て、天正12年(1584)にポルトガルのリスボンに到着しました。ポルトガル王などに謁見した後、天正13年(1585)2月22日には、ついにローマ教皇グレゴリウス13世に謁見を果たしています。
彼らがリスボンから帰途についたのは、天正14年(1586)2月25日のことでした。
帰国したらキリシタンに逆風吹きまくり!?
実は、彼らが長崎から出港してすぐ、比較的キリスト教やヨーロッパに寛容だった織田信長は討たれていました。そして、庇護者でもあった大友宗麟や大村純忠らも亡くなってしまいます。さらに、豊臣秀吉によるバテレン追放令が発令されており、彼らが天正18年(1590)に帰国した時はすでに、キリスト強への風当たりが強くなっていたのです。
使節のひとり、伊東マンショはその後、天草のコレジオ(神学校)で学び、やがてマカオへと留学します。帰国後は小倉を拠点に布教活動をしていましたが、慶長16年(1611)、領主の細川忠興によって追放され、長崎へと移りました。その地のコレジオでひっそりと教えている中で病を発し、翌年には亡くなります。
中浦ジュリアンは、伊東や原らとマカオに留学後、司祭として長崎で布教活動に励みます。慶長19年(1614)に江戸幕府から発令されたキリシタン追放令により禁教の動きが強まる中、彼は地下に潜伏し20年以上も布教を続けました。しかし捕縛され、寛永10年(1633)、穴吊りの刑に処せられ、死去します。
原マルティノもマカオ留学後に司祭となりましたが、キリシタン追放令の後にマカオへと移り住みました。ここでラテン語の才能を発揮して翻訳や出版に携わり、寛永6年(1629)に病没します。
4人中唯一の棄教者・千々石ミゲル
さて、残るひとりの使節・千々石ミゲルですが、彼はマカオに留学することもなく、何とキリスト教を捨てたのです。ヨーロッパ探訪の際、奴隷制度を目の当たりにし、キリスト教に対しても不信感を抱いたためともいわれています。
棄教した彼は千々石清左衛門と名乗り、大村喜前に仕えました。彼は大村に、「キリスト教布教は異国の侵略手段、棄教すべし」と訴えています。のちに大村とは不仲となり遠ざけられ、さらにキリスト教を捨てた裏切り者として有馬晴信の遺臣から暗殺されそうになったこともありました。「棄教後は仏教徒からも異端扱いされた」とイエズス会神父の記録にもあり、ひっそりと生活していたようです。
長崎を出港する時は、輝かしい未来を信じていたであろう天正遣欧少年使節。まさかこんな結末になるとは、誰もが予想だにしていなかったに違いありません。
(xiao)
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