【幸か不幸か…】生き残った平清盛の娘・建礼門院徳子の波乱万丈な生涯

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平清盛時子の間に生まれた平徳子(建礼門院)。大河ドラマ「義経」では、中越典子さん、同じく「平清盛」では、二階堂ふみさんが演じていました。安徳天皇の母である徳子は、夫に先立たれ、壇ノ浦の戦いで入水するも自分だけ助かるという、不幸なイメージのある女性ですが、実際はどうだったのでしょうか。建保元年(1214)12月13日に亡くなったとされる、徳子の生涯をご紹介します。

徳子を描いた錦絵。水野年方筆「寂光院」

入内7年目で懐妊!しかし夫が21歳で死去

徳子が入内したのは、16歳のとき。夫となる高倉天皇(11歳)が元服したため、政治権力を強化させたい清盛の意向によって進められたとされています。一説によると、後白河法皇の妃であり、高倉天皇の生母でもある滋子(建春門院)が、朝廷内の融和を望んだためともいわれています。

「天子摂関御影」より、高倉天皇像。
(宮内庁蔵)

入内はしたものの、徳子にはすぐに子どもはできませんでした。一方で高倉天皇は乳母や、後宮の小督局とのあいだに内親王をもうけます。これには舅である清盛は激怒!『平家物語』には、小督局を出家させてしまったとありますが、定かではありません。徳子と高倉天皇の仲は冷めていたのではないかという見方もありますが、徳子に出仕していた女流歌人・右京大夫の『建礼門院右京大夫集』によれば、仲睦まじい関係にあったそうです。

そしてついに、徳子は懐妊。治承2年(1178)、のちの安徳天皇である言仁親王が誕生します。その3年後には言仁親王が即位、高倉上皇による院政が始まります。

一見幸せかのように見えた徳子ですが、間もなく高倉上皇が病に倒れ、治承5年(1181)1月14日、21歳の若さで亡くなります。この時、徳子を後白河法皇の後宮にしようという、とんでもない案が飛び出したといいます。清盛と時子は承諾したとされますが、徳子はさすがに拒絶。従順だった徳子が両親に逆らったのはこの時だけではないかといわれています。

髪の毛を熊手でかきとられた?

高倉上皇の崩御により、かねてより平氏に不満を抱いていた後白河法皇が再び院政を行うようになります。清盛は徳子が安徳天皇の生母であることを盾に、権勢を回復しようとしますが、治承5年(1181)閏2月4日、熱病で亡くなってしまいます。

そして同年7月、木曾義仲に京から追い出された平氏は、法皇によって追討宣言が出され、追われる立場となります。西国に逃げ延びますが、壇ノ浦の戦いで源氏軍に敗北、平氏は滅亡します。元暦2年(1185)3月24日のことでした。

このとき、母・時子は安徳天皇を抱き「浪の下にも都の候ぞ」と言って海中に身を投じたとされています。一説には時子は三種の神器のひとつである天叢雲剣を持ち、安徳天皇は徳子に仕えた按察使局が抱いて入水したとする説もあります。

大河ドラマ「義経」より。安徳天皇を抱き上げる時子(松坂慶子)。
©️NHK

徳子も海中に身を投げますが、源氏方に助けられます。しかも『平家物語』によると「建礼門院の髪の毛を源氏方が熊手でかきとった」とあり……もちろん、真偽のほどはわかりませんが、幸か不幸か、徳子は生き残ります。

生き残った徳子の最期

生き残った平家の中で、平宗盛は斬首、平時忠は配流となりますが、徳子は先帝の生母であることから断罪はされず、仏門に入ります。

京都市大原にある寂光院。天台宗の尼寺で、推古2年(594)に、
聖徳太子が用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられる。

『平家物語』の最終巻「灌頂巻」は、徳子の隠棲した寂光院が舞台です。後白河法皇がお忍びで徳子のもとを訪れ、徳子は現在の身を恥じながら涙を流して半生を振り返るという、物語の幕引き役を担っています。こちらも史実性ははっきりしておらず、この後のことも、源頼朝に平家没官領の一部を与えられたことが『吾妻鏡』に書かれている程度です。

先述の右京大夫が寂光院を訪れ、徳子たちの落ちぶれように涙を流したという記録があるので、寂光院にいたことは確かなのかもしれません。

徳子は現在、各地の水天宮の祭神の一柱として、安徳天皇と時子とともに祀られています。
夫に先立たれただけでなく、夫の父に嫁がされそうになったり、熊手で髪の毛をかきとられたりと、波乱万丈な人生を送った徳子でしたが、母と子と3人で祀られている今は、幸せかもしれません。

(編集部)


大河ドラマ「義経」
放送日:2017年11月14日(火)スタート 月-金 午後2:00~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/yoshitsune/

【ストーリー】
平治元年(1159年)12月。平治の乱で源氏軍が平家に破れ、源義朝の愛妾・常盤は、乳飲み子の牛若(のちの義経)と幼子らを抱えて都を逃れ雪の中をさまよい歩いていた。母が平家に捕らえられたことを知る常盤は、自分の命と引きかえに母と子らの助命を求めて平清盛のもとへ出頭する。清盛は先に捕らえた源氏の嫡男・源頼朝の命とともに思案する。


 

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