【豊臣秀吉が築いた大阪城】構造と歴史からその魅力を知る!

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【豊臣秀吉が築いた大阪城】構造と歴史からその魅力を知る!

戦国時代には各地に多くの城が築かれましたが、熊本城や松本城などとともに名城として知られるのが大阪城です。豊臣政権時代は権力の中心になり、大坂の陣でその終焉を迎えた天下の巨城に込められた天下人の思いとは、どのようなものだったのでしょうか。

今回は、日本の歴史に大きく関係した大阪城が築城された理由や構造、その歴史について解説します。

※築城当時の表記は「大坂城」となりますが、こちらの記事では現在の表記である「大阪城」で統一させていただきます。

大阪城はこうして造られた!

日本でも有数の城である大阪城ですが、そもそもどのようにして造られたのでしょうか。豊臣秀吉が大阪城を築城した理由と築城の経緯を見ていきましょう。

豊臣秀吉が築城した理由

石山本願寺の跡地
秀吉は石山本願寺の跡地を重要視していました。

大阪城が建てられた場所にはもともと石山本願寺がありました。石山本願寺勢力は、全国統一を進める織田信長に最後まで立ちはだかった強敵です。彼らは難攻不落と言われたその地の利を活かし、信長軍団を大いに苦しめました。石山本願寺のあった場所は北の台地下に淀川が流れる天然の要害であり、海や川も近く、京都にも淀川でつながる交通の便の良さから、信長自身も拠点にするには最高の立地だと考えていました。本能寺の変で信長が討たれると、後継者となった秀吉はその考えを引き継ぎ、石山本願寺の跡地に自らの拠点となる大阪城を築き上げ、京都をにらみながら全国に覇権を唱えたのです。

築城奉行はあの黒田官兵衛

本能寺の変を起こした明智光秀を山崎の戦いで打ち破り、北陸で旧織田家最有力の家臣だった柴田勝家を倒して、大阪城の築城を開始した秀吉。大阪城はまさに天下を統一せんとする秀吉が、その拠点と権力の象徴とするべく築いた城でした。築城奉行は当時から築城の名人とされていた秀吉の右腕、黒田官兵衛(孝高)だったことからも秀吉の熱の入れ方が分かりますね。

大阪城の構造とは?

夏の大阪城

秀吉がその威信をかけて築城し、後に徳川家康が天下の大名を使って建て直した大阪城には、数々の工夫が施されていました。天下人の城はどのような構造だったのでしょうか。

豊臣時代の城の構造

豊臣時代の大阪城は本丸を中心に同心円状に郭を連ねた、輪郭式平城という構造です。内堀と外堀が置かれ、天守からは大坂の町並みが一望できたといいます。これは秀吉が初代築城奉行の黒田官兵衛に指示したもので、天守閣は天守台に余地を残した状態で、5重6階の構造となっていました。この巨大な天守の構造は、信長から秀吉へと続く織豊政権下で、特徴的なものとして知られています。石垣はエジプトのピラミッドの石を大きく上回る巨大な石が使用され、安土城のものを踏襲していました。

現代の姿は江戸時代に!

現在見ることができる大阪城は秀吉の造ったものではなく、大阪夏の陣で落城したものを徳川家が再建設したものです。徳川幕府が築城した際、石垣と堀をなくし、全体の高さをおよそ1メートルから10メートルに盛り土し、さらにその上に石垣を積んだことで、豊臣時代の大阪城は地中に埋まってしまいました。その構造も、豊臣大阪城のものは踏襲されず独自のものに造り変えられ、天守は大きくなり、二重に堀割を廻らせています。西日本を抑える上で大阪は重要な拠点だったことから、結果的に江戸城を上回る巨城になりましたが、それでもその規模は豊臣時代の4分の1程度だったそうです。

歴史から大阪城について知る

大坂夏の陣図屏風
大坂夏の陣図屏風。(大阪城天守閣所蔵)この戦いで大阪城は落城しました。

秀吉が権威の象徴として建設した大阪城はその後の政治の中心になりました。しかし、朝鮮出兵の失敗や秀吉の死と、徐々に豊臣家から権威は失われ、全国の戦国武将たちの注目は家康に集まっていきます。関ヶ原の戦いで勝利した家康は天下を手中に収めるために画策し、ついに豊臣家と徳川家の間で戦国最後の戦いが起こりました。大阪城はその決戦の舞台になったのです。

大坂冬の陣・夏の陣と大阪城

関ヶ原の戦いで勝利した家康は、徳川家中心の天下を作ろうします。豊臣家の権力を徐々にそぎ、ついには豊臣家と徳川家を中心とする勢力の間で戦いが勃発。大坂冬の陣・夏の陣と呼ばれる戦いが起こりました。豊臣側には有名な真田幸村や関ヶ原で没落した旧大名なども味方しますが、徳川方が優勢に戦いを続けます。大阪城も冬の陣で内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまい、夏の陣でついに落城してしまいます。こうして大阪城は一度、豊臣家とともに滅びました。

江戸幕府と大阪城

徳川家が徳川幕府を開き江戸時代が始まった後も、大阪城は重要な場所であり続けます。徳川家によって再建された後、大阪城には大阪城代という将軍に代わって大阪城を預かり、西国大名の監視を行う譜代大名から選ばれた有力者がいました。長い間政治の中心だった京と大坂は徳川家にとって重要な地であっただけでなく、いざ戦いが起こったときに島津や毛利などの有力な外様大名が天皇を擁してしまうことを防ぐためにも抑えておくべき重要な拠点だったのです。初代大阪城代が家康のもと数々の戦いで活躍した内藤正信だったことも、徳川家がこの地を地理的にも政治的にも重要な場所と考えていたことがうかがい知れます。

秀吉が築いた大阪城

大阪城の天守閣からの眺め
現代の大阪城の天守閣からの眺めです。

秀吉の築いた城として有名な大阪城ですが、意外にも現代の姿は徳川時代に再築されたものでした。そんな大阪城は、現在、桜門や大手門、千貫櫓(せんがんやぐら)などが重要文化財に指定され、多くの観光客が訪れています。願わくは現在の約4倍もあったという秀吉が築いた真の大阪城の姿を見てみたいものですね。

 

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