現在の御茶ノ水駅の近く、東京都文京区湯島にある「近代教育発祥の地」の碑。江戸時代、この地には昌平坂学問所という幕府直轄の教学機関がありました。明治維新後は政府に引き継がれ、のちに東京大学などへ発展したことから、こう呼ばれています。現代にもつながる昌平坂学問所の歴史とは?
もともとは儒学の私塾が始まり
江戸時代初期に活躍した儒学者・林羅山は寛永9年(1632)上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に孔子を祀る孔子廟や私塾などを作り、のちに忍岡聖堂と呼ばれるようになります。儒学とは、孔子の思想をもとにした儒教を学ぶ学問のことです。
その後5代将軍徳川綱吉の時代に新たな聖堂を湯島に建設することになり、元禄3年(1690)創建。忍岡の孔子廟や林家の私塾もここに移されました。これが湯島聖堂です。当時は、儒学の中でも農業や上下の秩序を重視した朱子学が盛んで、聖堂も大いに賑わいました。しかしその後8代将軍徳川吉宗が実学を重んじたため、次第に衰退していきます。
ところが寛政2年(1790)になると老中・松平定信が出した、幕府の教育機関での異学の講義を禁じる「寛政異学の禁」により、再び朱子学が奨励されるようになります。それにより、湯島聖堂も林家から切り離され、寛政9年12月1日(1798年1月17日)、幕府直轄の教学機関として「昌平坂学問所」が設立。正式名称は「学問所」で、孔子の生地である「昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名されました。
倒幕にもつながってしまった!?朱子学
昌平坂学問所は全国の藩士や浪人なども学ぶことができました。また「寛政異学の禁」は幕府の教育機関でのことで、諸藩にある藩校の教育内容を規定するものではありませんでしたが、学問所で教えられる朱子学は次第に全国へ広まり、江戸時代の中心的思想となっていきます。
礼をわきまえ主君に従うなど、身分秩序を重んじる朱子学は、当時の封建体制を支えるものでした。しかし幕末になると、その思想が天皇を中心とした国を目指す尊王論を巻き起こし、倒幕運動、明治維新へとつながったともいわれています。なんとも皮肉なものですね。
ただし、西郷隆盛や吉田松陰は、朱子学ではなく陽明学(孝をもって行動することを説く)を学んでいましたし、佐幕派の中心であった会津藩、桑名藩は朱子学を尊重していたので、人ぞれぞれのようです。
昌平坂学問所のその後
幕末には洋学の開成所、西洋医学の医学所と並び称されていた昌平坂学問所ですが、維新の混乱期に一時閉鎖。慶応4年(1868)、新政府により「昌平学校」として再開しますが、従来の儒学派と新たに設けられた皇学(国学や神道)派との対立が激化したこともあり、明治4年(1871)には閉鎖されてしまいます。
一度はなくなってしまった学問所ですが、前述の開成所、医学所と併せて、明治10年(1877)、日本初の近代的な大学として創設された東京大学の源流のひとつに数えられています。
学問所のあった場所には、明治5年(1872)に東京師範学校(のちの高等師範学校。現在の筑波大学)、明治7年(1874)に東京女子師範学校(のちの東京女子高等師範学校。現在のお茶の水女子大学)が設置されました。お茶の水女子大学の校名はまさに、源流である昌平坂学問所があった地名に由来しているんですね。
さらにこれ以降、中央大学、明治大学、日本大学など旧法律学校を中心とする神田学生街が形づくられ、古書店街など、現代の発展へとつながっていったのです。
近くには湯島天神もあり、受験シーズンはさらに賑わうこの界隈。江戸の頃より同様の風景が広がっていたのかもしれないと思うと、感慨深いものがあります。学生気分になって、歩いてみてはいかがでしょうか?
(編集部)
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