【高熱で体から黒煙!?】平清盛の死因“あつち死”とは

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治承5年閏2月4日(1181年3月20日)、平清盛が64歳でこの世を去りました。清盛の死因については諸説あり、今もはっきりと断定されてはいません。というのも、特に平家物語における彼の最期についての記述があまりにも壮絶だったため、様々な憶測を呼んでいるようなのです。今回は清盛の壮絶な最期の様子と死因について探ってみたいと思います。

清盛の死とその後への影響

『天子摂関御影』の清盛肖像(南北朝時代)

武士として初の太政大臣になり、初の武家政権を打ち立てた清盛は、安徳天皇の外祖父として権力をほしいままにしました。
しかし、平治の乱で助命した源頼朝らが打倒平氏の兵を挙げ、徐々に雲行きは怪しくなっていたのです。
そこで清盛は頼朝に対する臨戦態勢を立ち上げ、自らのいる京都での新体制づくりも同時に目論みました。しかしそこで突然、高熱を発して倒れ、それからわずか5日後に亡くなってしまったのでした。そこから平氏は急激に弱体化し、清盛の死から4年後の元暦2(1185)年、源氏の軍勢の前に壇ノ浦で敗れ去り、滅びることとなったのです。

清盛の最期の様子

「体から黒煙を立ち上らせる清盛(平家物語絵巻より)」

清盛の最期について、平家物語には壮絶な記述があります。石の風呂に比叡山で汲んできた水を入れて浸からせるもあっという間にお湯になってしまったとか、体に水をかけると蒸発し、黒煙が部屋中に渦巻いたとか、体がとにかく熱くて彼の周囲4,5間(7.2m~9m)くらいは近寄るのも大変だったとか、本当かな?と思うほどの描写なのです。
そしてついには熱さに悶絶して「あつち死にぞし給ける」と描かれています。「あつち死」とはおそらく、熱さのあまり死んでしまったということなんでしょうね。

とはいえ、清盛は死の間際に遺言らしきものを残しています。
「思い残すことといえば、頼朝の首を見ていないことだ。自分が死んだ後は供養などいらないから、討伐の兵を差し向けて頼朝の首を刎ね、我が墓前に供えるのだ」と言い残したと平家物語にはあります。

清盛の死因は?

東大寺や興福寺を焼いたことで、当時はその死は仏罰とも考えられていた
「平清盛炎焼病之図」
(国立国会図書館)

清盛の死因については、一般的には熱病とされて、瘧(おこり、マラリアのこと)だと考えられています。マラリアは高熱や震え、悪寒が発作的に起こります。
しかし、マラリアは蚊が媒介する病気。夏場に起こることは考えられますが、清盛が死んだ2~3月頃に蚊がいたとは考えにくいのです。そのため、近年はマラリア説に疑問を呈する声が多く挙がっています。とはいえ、可能性はゼロではありません。

そのため、今ではインフルエンザや肺炎、猩紅熱、髄膜炎、脳出血、腸チフスなど様々な死因が推測されているようです。確かに、季節柄、インフルエンザはあるかもしれません。ただ、周りの人には感染しなかったのかなとも思いますよね。

ちなみに、関白もつとめた同時代の公家・九条兼実の日記「玉葉」には、清盛が2月27日に「頭風(頭痛)を病む」という記述があります。
この頭痛の記述を元に、髄膜炎や脳出血を疑う声が多くなってきました。

髄膜炎は激しい頭痛、高熱、けいれんが起きます。一方、脳出血も頭痛に始まり、出血の部位によっては体温の調節や呼吸などを司る部分に支障を来すこともあるそうなので、これも考えられるでしょう。
ただ、遺言を残すなど最後まで意識があまり混濁していない点が気になります。となると、いったい清盛の死因は・・・?

平家物語の記述は少々オーバーかなとも思いますが、何にせよ清盛が高熱によって亡くなったことは玉葉以外の同時代の史料にも記載されています。亡くなるまでが5日間しかなかったことから、急性の病気と考えて良いのでしょうが、それにしても謎は深まるばかりですね・・・。

(xiao)

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