【徳川吉宗と大奥】享保の改革によって変化した女たちの生活

未分類
【徳川吉宗と大奥】享保の改革によって変化した女たちの生活

徳川吉宗は時代劇作品『暴れん坊将軍』に取り上げられるなど、徳川歴代将軍のなかでも馴染み深い人物といえるでしょう。吉宗は窮迫していた幕府を立て直すため大幅な改革を行ったことでも有名です。この改革は、幕府の体制や人々の生活だけではなく、当時の大奥にも大きな変化をもたらしました。

今回は吉宗が将軍になった経緯や、「享保の改革」によって大奥がどのように変わったのかをご紹介します。

徳川吉宗が将軍になった経緯とは?

江戸時代、将軍家に次ぐ地位をもつ御三家(尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家)の存在がありました。吉宗は紀州徳川家の生まれのため将軍家直系ではありませんでしたが、なぜ将軍になったのでしょうか。

紀州藩主だった吉宗

徳川吉宗の肖像
徳川記念財団に所蔵されている、徳川吉宗の肖像画です。

吉宗は貞享元年(1684)紀州藩主・徳川光貞の四男として生まれました。母の浄円院(お由利の方)は紀州徳川家の召し使いで、和歌山城の大奥の湯殿番だった際に見初められたといわれています。
吉宗は家老のもとで養育されたのち、元禄10年(1697)14歳で葛野藩主に就任。宝永2年(1705)紀州藩3代藩主だった長兄とその後継者の三兄が亡くなったため、22歳で家督を相続します。
藩主になってからは藩政改革に着手し、自ら率先して倹約したり幕府からの借用金を返済したりと財政再建に努めました。また訴訟箱を設置して直接住民の声を聞くなど、風紀面での改革も進めています。

8代将軍に就任

享保元年(1716)7代将軍・家継がわずか8歳で早世します。ここで徳川将軍家の血筋が途絶えたため、御三家のなかから後継者候補が選ばれることになりました。
尾張家6代藩主・継友は皇室ともつながりがある人物で、家継の補佐をしていた幕府方の間部詮房や新井白石にも引き立てられるなど有力な将軍候補でした。そんな中、6代将軍・家宣の正室である天英院が次期将軍に吉宗を指名したという説や、家継の生母・月光院や大奥が吉宗を支持したという説があります。詮房や白石に反対する幕臣たちもこれを支持したため、御三家出身の養子として初の将軍就任を果たしたのです。

この頃の大奥の勢力図とは?

大奥
大奥の歌合の様子を描いたものです。

将軍の妻・御台所と側室たちの居所である「大奥」では、女性たちのバトルが繰り広げられていました。当時の大奥は絶大な権力を持っていたのです。

天英院VS月光院の派閥闘争

大奥史上泥沼の争いとなったのが、天英院月光院による派閥闘争です。天英院は6代将軍・家宣の正室で、家宣が甲府藩主だったころに結婚しました。二人は仲睦まじく一男一女をもうけましたが、どちらも早世してしまいます。その後、家宣は5代将軍・綱吉の養子となって将軍に就任。側室の一人・月光院が7代将軍・家継を産んだことで派閥争いが勃発します。

当時、天英院は御台所として江戸城内で最高の権力を誇っていました。家宣も公式文書を見せて意見を求めるなど大きな信頼を寄せていたようです。ところが、月光院が将軍の生母となったことで、大奥で権力を発揮するようになります。これは天英院にとって脅威でした。
そのような折、月光院付きの御年寄・江島(えじま/絵島とすることもあり)が、人気役者の生島新五郎と密通し閉門時間に遅刻するという「江島生島事件」が起こります。天英院はこれに目をつけ、江島や月光院派の関係者ら1500人を処罰して大奥から排斥しました。この事件以降、二人の確執はさらに深まっていくのです。

享保の改革によって変化した大奥

徳川吉宗の銅像
享保の改革を行った吉宗の銅像です。

当時は女性が政治に口出しすることは考えられなかったため、天英院による将軍指名は大奥の権力を証明するものでした。しかし、そんな大奥も吉宗の改革によって大きな変化を遂げます。

享保の改革をおさらい

将軍に就任した吉宗は、紀州藩での藩政改革経験を活かして幕府財政の再建に着手しました。この「享保の改革」は、江戸の三大改革の一つにも数えられています。改革内容は多岐にわたりますが、主に以下のようなものがあります。

  • 足高の制…地位ごとに給与を定めた官僚制度改革
  • 公事方御定書…刑事判例集の作成による司法制度の整備
  • 上米の制…一時的な献上米による参勤交代時の江戸滞在期間の緩和
  • 相対済令…金銭貸借についての示談命令
  • 目安箱の設置…庶民の意見の政治への反映
  • 江戸町火消しの設置…火事対策
  • 小石川養生所の設置…医療政策

リストラ策に打って出た

吉宗は大奥の整備にも乗り出し、4000人から1300人まで一気に人員削減しました。その方法の中でも特筆すべきは、美女50人を選ぶという驚くべきものだったといいます。
当時の吉宗は正室を亡くし独身だったため、この命令は大奥の女性らにとって次期将軍の生母選びと捉えられました。ところが吉宗は、「美人はほかに嫁ぎ先がすぐに決まるだろうから暇をとらす」と言ってリストラしてしまうのです。
このとき選ばれた50人は、将軍の寵愛を受けようと野心をめぐらせた女性と考えられます。当時の大奥は人事や政治にも影響を与えるほど権力があったため、吉宗はこのような女性たちによる闘争や謀略を防ごうと先手を打ったのでしょう。切れ者の吉宗だからこその策といえるかもしれませんね。この50人以外にも、実に多くの女性がリストラの憂き目に遭いました。

ドラマの題材にもなった大奥

煌びやかなイメージが強く、派閥闘争や後継者争いなどさまざまなトラブルがあったことから、のちの創作作品の題材として人気を博している大奥。
継嗣問題で敵対した天英院と月光院の場合、その後は仲が良好になったといわれています。しかし、明るみに出ていないだけで、歴代の大奥ではもっと多くのトラブルが起こっていたかもしれません。そんな大奥に改革という一石を投じた吉宗は、まさに凄腕の持ち主だといえるでしょう。

 

<関連記事>
【個性豊かすぎる】実はこんな人物だった!徳川15代将軍まとめ
【実は7人もいた『水戸黄門』】暴れん坊将軍、銭形平次…時代劇のモデルは実在した?
【今が旬!】徳川吉宗が広めたサツマイモが明治維新を支えた?

Visited 1 times, 1 visit(s) today
READ  【新陰流:柳生十兵衛(三厳)】隻眼の剣豪の生涯と残された逸話

コメント

タイトルとURLをコピーしました