歴史研究家・乃至政彦氏がテーマにゆかりのある古典を紹介するシリーズ。第2回は、永禄4年(1561)9月10日(グレゴリオ暦では1561年10月28日)にちなむ「川中島合戦」をテーマに、関連する歴史作品をご案内いたします。
川中島合戦の背景
川中島合戦は通算5回あったとされている。そのうちもっとも有名なのは永禄4年(1561)9月10日の第4次川中島合戦だ。
当代随一を争う大名の上杉謙信と武田信玄は、信州川中島で大会戦に及び、日本史上稀に見る大激戦を展開。未曾有の死傷者を出した。このとき謙信は八幡原の信玄本陣まで乱入し、信玄本人に直接の「自身太刀打ち」に及んだことが語り草になっている。
ところでこの合戦は、5回とも信濃をめぐる領土争いで、天下の趨勢を直接動かさない壮大な局地戦だったとされる向きがあるが、それは第3次までの話だ。
第4次は領土紛争による合戦ではない
第3次合戦は、足利将軍からの介入を受け入れた上杉・武田の両氏が、領土をめぐる紛争停止の勧告に従った。朝鮮半島の「38度線」は、あくまで暫定的な休戦ラインだったが、この和睦は恒久的なものとして、上杉と武田の抗争は終了させられたのだ。
その見返りに謙信は将軍から様々な特権を認められ、越後の「殿様」から関東の「御屋形様」に昇格。勢いづいて信玄と軍事同盟を結んでいる関東の北条氏を攻めた。謙信にはそれまで北条氏に劣勢を強いられていた関東全土の将士が謙信に味方した。
このとき足利将軍の外交と、謙信の軍事行動は、ある人物によって密かに連携させられていた。ある人物とは「放浪関白」の異名をとる若き日の近衛前久である。前久は外交環境を整え、謙信の関東制圧がなるよう蠢動していた。謙信が東国の覇者となれば、その大軍で上洛を挙行させ、京都の将軍権力を扶翼させる壮大な計画を企てていた。
天下の行く末を定める重要な決戦
謙信の関東制圧はもはや目前に迫っていた。だが、このまま黙って見過ごしていては、北条もろとも武田も滅ぼされるのではないか。そう危ぶんだ信玄は、謙信の活動を妨害するべく、越後侵攻を敢行する。このため謙信は途中ですべてを取りやめて、帰国するほかなくなった。
越後に戻った謙信は、計画の邪魔をする信玄を撃滅する決意を固める。そして再度軍勢をまとめなおすと信濃へと歩武を進めたーー。行く先は、これまで何度も押し合って来た北信濃の広野である。
かくして起こったのが第4次川中島合戦であった。それは領土争いの延長ではなく、天下の行く末を定める重要な決戦として生じたのだった。
このとき上杉・武田両軍ともに国境付近の兵まで根こそぎ動員し、「有無の一戦」をするために出馬した。
川中島合戦の古典小説
さて、天下を左右する戦役規模の決戦として起こった第4次川中島合戦だが、上記の史実を反映した歴史創作物はごく近年のもの(私が時代考証に協力した長編小説、伊東潤『吹けよ風 呼べよ嵐』(祥伝社、2016)だけではないだろうか)を除いて存在しておらず、ロマン色の強い作品が競合するようにして並んでいる。
ここではとりわけ近年の川中島合戦に対するイメージを固定化した作品を「古典」として紹介したい。それは、無欲な英雄謙信と、強欲な信玄の抗争を描いた海音寺潮五郎の小説『天と地と』(昭和35~37年[1960~1962]『週刊朝日』連載。複数の出版社から販売された。現在は文春文庫で入手可)である。
『天と地と』の影響力
私は『天と地と』の影響力は、世間に思われているよりずっと大きいと考えている。
なぜなら川中島合戦の研究や考察において、提起される問題のほとんどが、この小説によって定着したイメージに起因しているからだ。
たとえば、謙信の「妻女山布陣」や武田の「啄木鳥作戦」。これは海音寺以前だと、吉川英治の『上杉謙信』にもみえるが、吉川作品の歴史小説は文学的に装飾され、心象風景のように書き進められている。
だが、海音寺は歴史小説に当時の学者の説を取り入れ、現代的な視点に基づき、史実をノンフィクション劇のように練り直す。こうしたあたらしい作風は「史劇」と呼ばれ、当時はとても新鮮にみえたようだ。漫画の一部が「劇画」と呼ばれたようなものであろう。
ここで、すこし余談を交えたい。かの司馬遼太郎も海音寺の「史劇」の作風に大きな影響を受けている。司馬は伝奇小説作家の出身らしく、大胆に嘘を仕立てるからくりとして、いささかメタな形で取り入れた。わかりやすい例でいうと、白土三平が「忍術」を科学的説明によって「賢明なる読者諸兄はすでにお気づきとおもうが」の口上で、読者に納得を求めるような手法だ。司馬は作り話を、史実に組み合わせ、読者を冗談の世界へといざなう魔法的な筆技を手に入れたのである。
物語の一騎討ち
海音寺の『天と地と』で最大の見せ場は、やはり謙信と信玄の一騎討ちシーンである。
海音寺が描く謙信の太刀打ちは、大河ドラマ『天と地と』において、格別の情緒を込めて演出された。
出会うはずのないところで、出会ってはいけないはずの二人が出会ってしまう。謙信と信玄の一騎討ちは、そうした劇的な運命の瞬間として、日本人の心に深く刻みつけられた。これは、現代小説やドラマでよく使われる「運命のいたずら」を想起させる。ふたりが普通はあり得ない不思議な縁から巡り逢ってしまい、非日常のドラマが生まれるという恋愛ものではほぼ定型化されたシーンだ。ほんの小さな偶然が積み重なり、どちらも世間通用の景色──乱戦の喧騒──から遠ざかった刹那、しかるべき舞台──霧の濃い八幡原──で運命的に巡り逢って、すべてが動き出す。ドラマで描かれた謙信と信玄の劇的遭遇から来る感動には、恋愛もののドキドキと同じものが合わさっている。
多くの創作物が、この一騎討ちを運命のいたずらが生んだ(あるいは生みえた)伝説として扱っている。ふたりは濃霧の戦場で、まるで人知の預かり知らぬ宿命により、巡り逢う。そして謙信が太刀を抜き、信玄は悠々と軍配で振り払う。
これは今では時代劇のお約束と化している。
長野県の川中島古戦場史跡公園(旧八幡原史跡公園)に建てられた一騎討像は、江戸時代に書かれた軍記をモデルにしたといわれているが、海音寺によって創作されたシーンのインパクトと無関係ではないはずだ。
史実の一騎討ち
さて、世間でよく取り沙汰される川中島の一騎討ちだが、実際はどうだったのだろうか。一騎討ちの有無を確かめるには根本史料を確かめる必要がある。さしあたっては上杉寄りの『松隣夜話』と武田寄りの『甲陽軍鑑』ということになるが、これらは織田寄りの『信長公記』と同じで、後世の編纂史料である。実際に顔を合わしたことのある関係者が書いたと言っても、完全に信頼できるものではない。
とはいえ、もちろんなんらかの史実や風聞があるからこそ合戦の内容が詳述されているのであり、真相を探るには熱読する必要がある。
そして、これら最初期の軍記にみえる一騎討ちと、近年の一騎討ちのイメージと比較すると、ふと気づかされることがある。実はこの一騎討ち、最初期の記録だと偶然起こったものとはされていないのだ。
両書ともに、謙信の用兵は、信玄との組討ち(文字通りの取っ組み合い)を狙って大軍を動かしていることが繰り返し描かれている。
つまり、一騎討ちは天のいたずらでもなんでもなく、謙信が人為的に発生させたものであることが明らかにされているのである。
ここで謙信が使ったという「車懸り」の説明を読み直してみよう。すると、その用兵思想がストレートに看てとれる。
「謙信は、我が味方の備えをまはりて、たてきり、いく度もこの如く候て、さい川(犀川)の方へおもむき候。[中略]それは車がかりとて、いくまはりめに旗本と、敵の旗本とうちあはせて、一戦をする時の軍法なり」(『甲陽軍鑑』)
これは、上杉軍を眼前にする武田軍が謙信の動きを説明するくだりを引用したものである。
謙信は1万3000からなる諸隊をもって武田軍8000と対峙した。ここで謙信は全軍を使って、武田軍の諸隊を脇から繰り返し攻め立てて、足止めさせようとした。その間に謙信自身が旗本を使い、信玄旗本への斬り込みをかけるためである。「車懸り」には、猛烈な攻撃を仕掛けるための円形陣のイメージが流布しているが、実際にはそうではなく、謙信が一騎討ちを果たすための仕掛けだったのである。
つまり「車懸り」は、謙信が信玄本陣を孤立させるための戦術と、それを達成するための隊列を総称するもので、現代的にいえば〈ゴレンジャーストーム〉がごとき団体による決め技といえるだろう。『甲陽軍鑑』はこれを「戦法」と記しており、「陣」(当時の言葉では「備」)という表現は使っていない。車懸りは型ではなく動きだったのである。
ところで少し余談をしておくと、この小説で定番と化した信玄の「鶴翼の陣」も史実ではないだろう。川中島最初期の史料では使われた記録がなく、江戸時代半ばあたりから見える話で、その発生と拡散には誤伝と創作が入り混ざっているようだ。
偶然ではない一騎討ち
川中島における謙信の用兵には、戦争の形を借りて暗殺を実行するという目的があった。戦果や勝利よりも、信玄の心胆を寒からしめ、天運に恵まれれば、その首をも捥ぎ取ることが謙信の望みであった。
川中島に一騎討ちはなかったかもしれない。だが、もし本当に一騎討ちがあったとすれば、それは複数の大河ドラマ(「天と地と」「武田信玄」「風林火山」)で繰り返し描かれる心象風景を想わせる「天意」による偶然の遭遇ではなかった。あらゆる状況を押しのけ、強引に乱入した謙信によって果たされた「人為」による必然の事件だったのである。
伝説を生む古典
いま、『天と地と』を読み返すと、今では史実に沿っていない部分を少なからず散見する。謙信の仮名(けみょう。通称のこと)は実際には「喜平次」ではなく、「平三」である。長尾為景の生没年も史実と異なる。とはいえ、物語として時代の実像に迫ろうとしたその筆からは、昨今の研究や小説ですら再現困難な人間と中世社会の生々しさを感じさせてくれる。
本作でもっとも白眉なのは、人間離れしていると見られがちな伝説上の謙信を空想的に描くのではなく、生身の少年が運命に立ち向かうことで、リアルな英雄像に作り直したところにある。それまで謙信といえば、なんだかよくわからない立派な聖人のように見られていたが、海音寺はこれをわれわれと同じ血肉を備えた人間として、謙信の内面を再構築したのであった。本書を受け止めた読者が、海音寺流の謙信像に影響され、また新たな謙信像を問い直す。今日の謙信像はこの繰り返しによって固まっているといえよう。『天と地と』は謙信像をアップデートした。更新前の謙信像を探るには、本書を読むほかにない。
海音寺から生まれた「川中島もののお約束」は、文学的な美しさと時代的要求に応じることによって、古典としての地位を獲得したのである。
乃至政彦(ないし・まさひこ)
歴史研究家。単著に『上杉謙信の夢と野望』(ベストセラーズ、2017)、『戦国の陣形』(講談社現代新書、2016)、『戦国武将と男色』(洋泉社歴史新書y、2013)、歴史作家・伊東潤との共著に『関東戦国史と御館の乱』(洋泉社歴史新書y、2011)。監修に『別冊歴史REAL 図解!戦国の陣形』(洋泉社、2016)。テレビ出演『歴史秘話ヒストリア』『英雄たちの選択』など。
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