【岩倉使節団が得たもの】ビスマルクに影響を受けたヨーロッパ視察

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【岩倉使節団が得たもの】ビスマルクに影響を受けたヨーロッパ視察

明治初期は明治維新によって国の在りかたが大きく変わっただけでなく、欧米をまねて近代化を推し進めた日本の歴史上でも動乱の時代でした。この成長に大きく関わったのが岩倉使節団です。使節団は一国の政治のトップたちが100人以上のチームを作って海外に出かけ、1年以上の長期間に渡って海外の科学技術や国情を視察するという例のないものでした。現在の日本では考えられない話です。使節団は行く先々で最新鋭の技術や文化を目の当たりにします。特にドイツのビスマルクから受けた影響は大きなものでした。

今回は、近代日本の発展に大きな影響を及ぼした使節団の目的と足取り、ドイツで鉄血宰相と呼ばれたビスマルクから受けた影響についてご紹介します。

岩倉使節団の目的はこの2つ!

岩倉具視
使節団の特命全権大使だった岩倉具視です。

岩倉使節団は1年以上海外を巡りましたが、もちろん遊びにいったわけではありません。実は二つの重大な目的を持っていました。1つ目は旧幕府時代に結ばれた数々の不平等条約の改正を目指し、その予備交渉を行うこと、2つめは日本よりはるかに発展した諸外国の文物を視察し、見聞を広め国の発展に寄与することでした。

不平等条約の改正と予備交渉

江戸時代の黒船来航に始まり、日本は欧米諸国から開国を迫られます。進んだ技術と武力を背景にした交渉に江戸幕府は折れ、安政の頃につぎつぎと不平等な条約を結んでしまいました。これが後に、幕府を倒そうという機運が高まった契機にもなるのですが、幕府が倒れた後もその不平等条約は残ってしまいます。明治日本が主権を確立し、貿易で利益を上げ、欧米諸国と対等に渡り合っていくためには、この不平等条約が邪魔だったのです。多くの条約の更新期限が迫っていたことから諸外国を外遊し、条約改正とその予備交渉をすることが使節団に課せられた大きな使命でした。

諸外国の文物視察で見聞を深める

幕末から欧米諸国の進んだ国家の構造や技術、特に武器や軍艦に対して日本人が受けた衝撃は、現在からは想像できないほど大きなものでした。また、当時の日本のリーダーたちは欧米諸国が進んだ技術と武力を用いてアフリカ・アジア諸国を植民地支配し、現地人から搾取していることを知ります。つまり、当時の日本人にとって、欧米の侵略を避けるために彼らと同等の技術や武力を手にすることは喫緊の課題だったのです。

使節団の足取りはこんなに長い

岩倉使節団のメンバー
岩倉使節団の主要メンバー。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通の順です。

使節団は特命全権大使の岩倉具視を筆頭に、副使の木戸孝允大久保利通伊藤博文山口尚芳、など総勢107名で編成されました。その中には山川捨松ら女子5人を含む留学生59人も含まれています。一行は1年以上諸外国を外遊しました。その足取りは長大で、彼らがどん欲に欧米諸国を回っていたことが伝わってきます。

アメリカ滞在に6カ月を費やす

使節団はアメリカに最も長く6カ月に渡って滞在しました。元々の予定は条約改正に向けて予備交渉を行うだけでしたが、改正後の条約の草案作成の交渉も始めようとしたため、当初の予定から大きく滞在時間が伸びてしまうことになりました。

欧州各国を巡った1年

アメリカを出発した使節団はイギリスのリヴァプールに到着します。当時世界一の工業先進国だったイギリスで工場や海軍基地を視察した一行は、その後、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスと実に10カ国以上ものヨーロッパ諸国を回ります。その後、地中海から紅海を抜け、アジア各国にある植民地を見学し、日本の横浜に帰着しました。

ドイツ視察とビスマルク

ビスマルク
1877年のビスマルクの写真です。

岩倉使節団が特に影響を受けた人物の一人がビスマルクです。ビスマルクはドイツの前身ともいえるプロイセンの首相、北ドイツ連邦首相、ドイツ帝国首相を歴任した人物として知られています。使節団の多くの団員がビスマルクを尊敬し、日本の国づくりをしていくお手本にしたことからも、彼が使節団に与えた影響は大きかったといえるでしょう。

ビスマルクのスピーチとは?

使節団は明治6年(1873)にドイツを訪問し、3月15日にビスマルクから晩餐会に招待されます。ビスマルクは数々の戦争に勝ち、ドイツ統一を果たしただけでなく、外交でも非凡な才能を見せる政治家でした。晩餐会でビスマルクは日本のトップの政治家たちに他の欧米諸国とは違ったスピーチを行います。彼は使節団に小国の厳しさと国際社会の現実について教えました。

スピーチの内容は「諸君らは世界各国が礼儀を持って付き合っているのを見ただろうが、それは表面上のことで、現実は弱肉強食である。プロイセンは昔小国だったので、そのときの屈辱は大変忘れ難い。万国公法(国際法)は全ての国の権利を保障する法とされているが、実際に大国は有利とみれば万国公法を、不利とみれば武力に訴えて物事を行うだろう。日本は万国公法に則った国体を整備するよりもまず富国強兵に努め、独立を全うすることがもっとも大事なのである」というものでした。これは、当時の日本の実情や位置づけを的確にとらえた、大変親身なアドバイスといえます。

諸外国は条約改正を断る際に日本の国法が万国公法に則っていないことを理由としましたが、ビスマルクは「欧米諸国のいいなりで万国公法に則って国を変えるより、まず欧米諸国と肩を並べられる軍事力を持て」と日本のリーダーたちに熱く語ったのでした。

プロイセンと日本の共通点

ローテンブルクの町並み
プロイセン王国ハノーファー州にあった、ローテンブルクの町並み。

ドイツの前身ともいえるプロイセンと日本には共通点がありました。それは、かつて他の諸外国と比べ小国で侮りを受ける立場だったということです。日本が不平等条約を結ばされたように、プロイセンもビスマルクの言葉の通り国力の差から屈辱を受けることがありました。

また、プロイセンと日本のもう一つの共通点として君主制だったことが挙げられます。当時のプロイセン・ドイツ帝国は帝政をとっており、アメリカのような共和制ではありませんでした。日本の天皇制を維持したまま国力をいかに発展させるかという点において、プロイセンは重要な手本になったわけです。

欧米の進歩に驚愕

岩倉使節団は条約改正と見聞を広めることを目的に欧米各国を回りましたが、条約改正についてはその役目を果たせませんでした。しかし、先進の文明と科学技術を目の当たりにし、その後の日本の発展に大きく貢献しました。当時の団員がその後、科学、工業、文明、政治、教育など各分野で活躍していったのです。そうした活躍にいたる上で、ドイツのビスマルクから受けた影響は大きなものでした。大久保利通や伊藤博文ら明治政府のトップは、このとき受けたビスマルクの教えを手本に国づくりを進めていき、近代国家が成立していくのです。

 

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