【浄瑠璃、歌舞伎で大ヒット】義経と平家の悲哀を描いた『義経千本桜』

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人形浄瑠璃や歌舞伎の演目のひとつである『義経千本桜』。源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、実は生き延びていた平家の武将たちとそれに巻き込まれた人々の悲劇を描いた作品は、延享4年(1747)11月、大坂・竹本座にて初演以来、多くの人々の心を掴み、人気演目のひとつとして現在も上演されています。今回は歴史・文学研究家の福田智弘氏に『義経千本桜』の作られた経緯やあらすじ、史実との違いをご紹介していただきました。

『義経千本桜』第四段「河連法眼館」の場面。初代歌川豊国画。

義経を慕う人々の想いから生まれた物語

源平合戦で類まれなる手腕を見せ、平家を滅亡に導いた殊勲者でありながら、実兄・頼朝との仲違いにより最期は自害に追い込まれる悲劇のヒーロー・源義経。彼を慕い、その悲運を惜しんだ大勢の人々の心が、数々の伝説を生み、浄瑠璃や歌舞伎などにおいては「判官物」と呼ばれるいくつもの作品が創作されてきました。

その中でも名作として名高いのが『義経千本桜』です。もともと、人形浄瑠璃の脚本として編まれた本作品は、上演されるや否やすぐに大ヒット。その後は、歌舞伎の演目としてもおなじみとなり、現在までその人気は続いています。

この『義経千本桜』が、義経に対する民衆の憐れみと敬愛の心から生まれた、というのは間違いありませんが、作品の背景には、当時の人々が持っていたもうひとつの想いが強く反映されているともいわれています。それは、かつては我が世の春を謳歌していながら、わずかな期間で滅亡していった平家の人々に対する憐憫の情でした。源義経が悲劇のヒーローであったと同時に、繁栄の日々から瞬時に没落の一途をたどった平家の人々もまた、それぞれに悲劇的要素を背負った人たちだったからです。

それゆえ『義経千本桜』の物語は、兄との対立によって都を落ちる源義経の姿を底流としながら、各話において主役とされているのは、源氏への復讐を胸に秘めた平家の落人や、それをかくまう人たちなどとなっています。『義経千本桜』は、都を落ち行く義経とそれを取り巻く人々との愛憎を描いた、現代でいうオムニバス形式のドラマなのです。

人々を魅了したオムニバス・ストーリー

原作は2世竹田出雲、三好松洛、並木千柳の合作で、諸説ありますが、主たる作者は並木千柳だとするのが有力です。能の『船弁慶』など、先行する芸能諸作品の要素を取り入れながら魅力的な作品に仕上げられています。あらすじを簡単にご紹介いたしましょう。

第一段

「兄・頼朝を『討て』」の意が込められたという鼓を後白河法皇より贈られた源義経。義経自身は「鼓は打たない(兄は討たない)」と決心しますが、逆に頼朝からは、壇ノ浦で滅ぼしたはずの3人の平家方武将の首が偽物だったこと、義経の妻が平家の人間だったことなどで疑いをかけられ、結局、義経は、頼朝から追われる身となり、都落ちします。

第二段

この後、船で落ちのびようと海運業者・銀平の世話になる義経。ところが、この銀平こそ、平清盛の四男・知盛の世を忍ぶ仮の姿であり、安徳天皇らとともに生き延び、密かに復讐の機会を狙っていたのです。しかし、義経は知盛の正体を見破り、返り討ちに。重傷を負った知盛は安徳天皇を義経に託し、巨大な碇を身に着け入水して命を断ちます。

知盛は義経を襲うも返り討ちに。
歌川国芳画。
第三段

もう1人の生き残り、平清盛の孫・維盛をかくまっていたのが釣瓶鮓屋の弥左衛門。しかし、その息子で無頼漢のいがみの権太は、維盛を討ち取ったとして、首を頼朝方に引き渡してしまいます。そのため、権太は、父・弥左衛門の怒りに触れて、刺されてしまうのです。ところが、権太が引き渡したのは、偽の首でした。密かに改心していた権太だったわけですが、そのまま息を引き取ることになるのです。

第四段

一方、義経の愛妾・静御前は、泣く泣く義経と別れ、義経の忠臣・佐藤忠信をお供に旅を続けていました。しかし、この忠信、たまに挙動不審なところがあるようです。やがて、義経のもとにはもう1人の忠信が現れ、義経と静、そして2人の忠信がめぐりあうことになります。実は、静御前のお供となっていたのは、狐の化身。後白河法皇から授かった鼓の皮にされた狐の子どもだったのです。

第五段

最後の生き残りで、平清盛の甥に当たる教経は、吉野山の僧に扮して源氏に復讐しようとするのですが、本物の忠信と狐の忠信の2人によって討たれます。一方、平家の血を引く安徳天皇は、義経のはからいで無事、出家の身となり、吉野山の千本桜が見守る中、大団円を迎えることとなるのです。

このように『義経千本桜』というタイトルのもと、主軸には源義経の都落ちの様子が描かれているものの、それぞれのストーリーの主役は平知盛、いがみの権太、狐の化身・忠信という個性あふれる人々である点が特徴的です。もちろん、亡くなったはずの平家の武将が生きていたり、狐の化身が出てきたりと、この作品が史実とはいえない「物語」であることは、いうまでもないことでしょう。

黄金期から現代へと引き継がれた名作

『義経千本桜』がはじめて上演されたのは今から約270年前の延享4年(1747)11月。江戸時代のちょうど真ん中あたり、8代将軍徳川吉宗が将軍位を息子の家重に譲り、その家重に仕えた田沼意次が徐々に出世の階段を上りはじめた頃です。

この作品が、人形浄瑠璃の演目として大坂・竹本座で上演されると、大変な人気を呼びました。当時の様子を記した『浄瑠璃譜』という書物にも「大当りにて大入なり」と記されているほどです。

この前年には、同じく大坂・竹本座で『菅原伝授手習鑑』が初演され大ヒット。8カ月も続演されるほどのロングラン公演となったほか、『義経千本桜』が好評を博した翌年には『仮名手本忠臣蔵』がこれまた大人気となります。この前後数年間は、人形浄瑠璃が空前絶後ともいえる人気を博した時代で、「人形浄瑠璃の黄金期」とさえ呼ばれていました。

こちらも浄瑠璃、歌舞伎ともに人気を博した『仮名手本忠臣蔵』。三代歌川豊国画。

このような人形浄瑠璃の盛況ぶりにあやかろうと、歌舞伎界も、人形浄瑠璃の名作をすぐに芝居に取り込もうとします。『義経千本桜』は初演からわずか2カ月後の1748年(延享5)正月には、もう伊勢で歌舞伎の演目として演じられており、その4カ月後の5月には江戸中村座でも上演されています。大坂における人形浄瑠璃の興行からわずかに半年後のことです。

この『義経千本桜』は、『菅原伝授手習鑑』『仮名手本忠臣蔵』とともに三大名作とされ、時代を経て演出などに工夫が加えられつつ、現在でも人形浄瑠璃(文楽)や歌舞伎などで大いに人気を博しています。特に、知盛の壮絶な復讐劇である「渡海屋・大物浦(第二段)」、弥左衛門、権太父子のすれ違いを描いた「鮓屋(第三段)」、狐の化身の活躍が見ものの「河連法眼館(第四段)」などは単独の演目として演じられることも多いようです。一方で、通し上演の場合でもすべてが演じられるわけではなく、「吉野山(第五段)」が催されることなどはまずないのが現状です。演目の人気に差があるのは、オムニバス形式の合作であるがゆえの宿命といえるでしょう。

現代の文楽の静御前。

史実を軸に、古くは軍記物語の『義経記』から人形浄瑠璃に歌舞伎、現代は大河ドラマや映画と、時代を超えて愛されるのは、ひとえに義経や平家の人々の活躍や悲哀に満ちた歴史に、人々が魅了され続けているからなのかもしれません。


福田智弘(ふくだ・ともひろ)
1965年埼玉県生まれ。1989年東京都立大学(現・首都大学東京)人文学部卒業。編集・デザインディレクターを経て、現在、国内外の歴史、古典文学関連を中心に、精力的に執筆活動を行う作家として活躍中。主な著書に『世界史もわかる日本史』『教科書では読めない古文』『徳川十五代を支えた老中・大老の謎』(以上、実業之日本社)、『ビジネスに使える「文学の言葉」』(ダイヤモンド社)などがある。


 

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