【スポーツ大国を目指せ!】ミズノの創業者水野利八の生涯に迫る!

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【スポーツ大国を目指せ!】ミズノの創業者水野利八の生涯に迫る!

2018年は明治元年から150年となる節目の年。これを記念し、明治時代に活躍した起業家たちを紹介する連載「明治の企業家列伝」がスタート。第4回は、スポーツ用品メーカー、ミズノの創業者 水野利八(みずの りはち)です。


スポーツの実況中継を見ると、たびたび目に入る「ランバード(RUNBIRD)」の文字。ランバードは、2016年に創立110周年を迎えたスポーツ用品メーカー、ミズノの商標です。去る6月~7月に開催されたサッカーワールドカップでも、アディダスやプーマ、ナイキといった海外メーカーのスパイクを履いた選手が目立ちましたが、日本代表の中で本田圭佑選手、岡崎慎司選手、吉田麻也選手ら4名の選手はミズノのスパイクを使用していました。また、海外選手のなかにもミズノの愛用者が。その後、夏の甲子園や、アジア大会の各種目でもミズノの商標「ランバード」は特徴的な意匠とともに目に飛び込んでくることが多々ありました。

中学校や部活などで親しまれる一方、オリンピックなどの世界的な大会への協力もしており、広く知られている一大スポーツ用品メーカー・ミズノは、どのようにして日本を代表する企業に成長したのでしょうか。ミズノの礎を築いた水野利八の生涯を追ってみましょう。

偶然目にした野球の試合が運命を変えた!?

ミズノ淀屋橋店(旧大阪店)

ミズノの創業者である水野利八(みずの・りはち)は明治17年(1884)に岐阜県大垣市の大工の棟梁の家に生まれました。父は大垣藩の御用を承るほどの腕のよい大工であり、貧しい家ではありませんでした。しかし、明治24年(1891)に濃尾大震災で被災し、その後過労で亡くなってしまいます。そうした中で12歳の利八は自らの意思によって小学校を中退し、大阪方面へ丁稚奉公に出ることにしました。そこには自分の手で水野家を立て直そうという強い意思があったそうです。なお、利八はもともと父の名前であり、幼名は仁吉といいました。

丁稚先は大阪にあった薬種問屋の川崎屋でした。給料も休みもなく厳しいものでしたが、利八は商いを楽しむようになっていきます。すると、わずか14歳の利八は川崎屋の仕入れを一切任されるほどの立場に成長しました。商売がよほど性にあっていたといえるでしょう。その後、京都の織物問屋である小堀商店に勤めることになり、「接待の禁止」「値引きの禁止」の二つのルールを学んだといいます。

このころ、利八は初めて野球の試合を観戦します。「こんなにおもしろいものがあるとは」と感激し、試合が行われる日には必ず足を運ぶ野球好きになりました。その後出征した日露戦争の戦地においても、同僚たちと野球談議にふけったようです。これはのちの商いにおける大きな糧となりました。また、戦地で病を得た利八はしばらく闘病生活を送りますが、その期間を来るべき時のための勉学に費やします。この時期はまさに雌伏の時だったと言えるでしょう。

日本初の野球シューズには歯がなかった

明治39年(1906)、利八は弟の利三とともに、大阪市北区で水野兄弟商会を創業しました。当時の商標は、水野家の紋所である井ゲタの中心に、「日本一になる」という願いを込め「日」の一文字を入れた「イズ日印」でした。水野兄弟商会は洋品雑貨のほか、野球ボールなどを扱う店で、創業の翌年には、早くも運動服装のオーダーメイドを開始します。こうして順調に滑り出すと、明治43年(1910)には梅田新地に移転し、店名を「美津濃商店」と改めました。そして翌年運動用具の生産を計画するとともに製造したのが野球シューズでした。このシューズはあまり知識のない中で試行錯誤しながら作られたもので、現在のスパイクのような歯はありません。革製でブーツのような形の重いシューズでしたが、これが第一号の記念すべきシューズとなりました。

翌年には野球がさかんな都市部への進出を狙って東京支店を開設しました。さらにその翌年の大正2年(1913)には野球グラブの製造・販売を始めます。利八は自らグラブをデザインし、職人と一緒に作り上げていきました。同時にボールやバットも製造し、野球商品のメーカーとして水野兄弟商会は着実に成長していったのです。

全国統一のボールと甲子園

全国高校野球選手権大会

野球への思い一筋に事業を拡大していた利八でしたが、懸念していることがありました。それは野球ボールのことでした。当時はまだ技術力が低く、なかなかよいボールがつくれなかったので、サイズなどがばらばらなことも珍しくなかったのです。しかし利八は「硬式野球ボールの規格化」を提唱しており、バウンドテストなどを繰り返し、ようやく大正5年(1913)に全国統一の標準球を完成させました。

この1年前、利八は大阪朝日新聞社の要請で全国中学校野球大会を開催しました。これが現在の全国高等学校選手権大会です。すなわち利八は高校野球の生みの親の一人であるといえるのです。たまたま出会った野球に情熱を注いだことで、利八は今に続く日本の代表的なスポーツイベントを手掛けた人物になったのです。このころには大阪の堂島に工場を建てたことで、より大きく事業を展開することが可能になりました。ミズノはこうして日本の一大スポーツ用品メーカーへの道をひた走ります。

大正12年(1923)、水野兄弟商会は美津濃運動用品株式会社に生まれ変わりました。この際に採用された商標は井ゲタの中心に図案化した「日」の字を入れ、井ゲタの外周を「TRADE MARK MIZUNO CO.,LTD.」のロゴで囲ったものでした。ここからは、世界を視野に入れたミズノの端緒をうかがい知ることができるでしょう。5年後の昭和4年(1929)、利八は欧米へと視察に出かけています。

スポーツの普及を願って

利八は西洋的なスポーツの普及をめざしていました。それを裏付けるように、ゴルフクラブづくりやスキーの開発を徐々に進めてゆきます。その結果、昭和8年(1933)には日本で初めてのゴルフクラブである「スターライン」が完成、ヒッコリー製のスキー板も発売されました。職人の日給が1円だった時代にスキー板は30円ほどと、当時は庶民の手に届くものではありませんでした。それでも利八は将来の普及に向けてじっくりと成果を積み上げて行ったのです。

その後も東京板橋工場や商品開発所の設置、上海での法人設立など、会社は拡大し、スポーツも徐々に普及していきました。この間、利八は利益よりもスポーツが浸透することに心血を注いでいたといえます。そこには幼いころに京都の織物問屋で習った商いの精神があったのでしょう。

利八はじつにさまざまなことに手を広げており、昭和15年(1940)には、富士山でグライダーを飛ばして高度と滞空時間の新記録を樹立しています。また、野球の分野でもポジションに関係なく同じグラブを使うことに疑問を感じて、世界初のキャッチャーミットを製造販売することに。好奇心を持つことと観察することが好きな人柄が現れていると言えるのではないでしょうか。

戦後も、利八はすぐに復興に向けて行動します。利八はスポーツを通じてなんとか復興や青少年の育成に役立とうと考えていました。それが自分の役割だと信じていたからです。こうした一途な利八の功績が認められ、昭和30年(1955)に高等学校野球連盟から功労賞を授けられます。また、翌年には藍綬褒章も受章しました。

昭和45年(1970)、利八はスポーツに捧げた73年の生涯を終えます。日本ではじめて野球製品の製造を始めた利八は翌年には野球殿堂入りを果たしました。偶然出会った野球の試合がなければ、日本の野球文化、ひいてはスポーツ文化は発達しなかったかもしれません。利八はまちがいなく日本のスポーツ文化を牽引した人物だったのです。

「ええもんつくんなはれや」の精神が生み出したもの

水野利八

昭和8年(1933)に製造された初の日本製ゴルフクラブ「スターライン」はミズノ初の国産ゴルフクラブで、ミズノの最初の鋳造アイアンでした。これは現在にも受け継がれている重要な技術だといいます。このように、利八の時代に開発され、今に続く製品は少なくありません。多くのものを作り出した利八の目の付け所には驚かされることがたくさんあります。

さらに「ポロシャツ」「ボストンバッグ」「オーバーセーター」など、いまでも使われている用語も利八が名付け親だといわれています。高校野球もふくめ、いまでも身近なスポーツのあちこちに、利八の痕跡が残っているのです。

「ええもんつくんなはれや」というのが、利八の口癖でした。妥協せず「いいもの」とスポーツの夢を追い続けた利八のおかげで、今日のわたしたちはさまざまなスポーツを楽しむことができています。製品の生産だけではなく、娯楽としてのスポーツを今日に残してくれたともいえる利八の生涯。まさに「ええもん」をつくった人だったのです。

<参考サイト>
HERITAGE AND HISTORY(ミズノ)

~連載「明治の企業家列伝」~
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