【前田慶次の性格】傾奇者は本当なのか?実在した彼の人物像と伝説

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【前田慶次の性格】傾奇者は本当なのか?実在した彼の人物像と伝説

歴史上には奇想天外な人物がたくさんいますが、前田慶次(利益)もその一人といえるでしょう。慶次の名前はさまざまな創作作品で知られますが、その人物像はほぼ江戸中期以降に作られた逸話集に端を発するもので、一次史料はほとんどありません。慶次という名前自体も通名で、実際は複数の名前を使用していたといわれています。
今では豪傑で型破りなイメージが定着している慶次ですが、戦国時代に生きていた実際の彼はどんな人物だったのでしょうか。今回は、慶次の性格や残されている逸話について解説します。

傾奇者として知られる前田慶次

慶次の性格として、現代で広く知られているのが「傾奇者(かぶきもの)」です。創作作品によって強調されてきた傾奇者とは、どのようなものなのでしょうか。

傾奇者とはどんな性格なのか

出雲阿国
歌舞伎の源流をつくった、出雲阿国です。

傾奇者とは、江戸前期に反体制的な行動をする武士や奉公人らを指した言葉です。かぶきといえば芸能の歌舞伎を思い出しますが、そもそも歌舞伎の源流「かぶき踊」は、慶長8年(1603)、出雲阿国が「かぶき(傾き)=偏った異様な行動・風俗」を取り入れて始まったものとされています。当時はどちらも異端なものという認識だったようです。

初期の傾奇者の多くは、没落した小領主や武家奉公人でしたが、町人や旗本・御家人らが傾奇者になることもありました。彼らは狼藉を働いたため嫌われていましたが、その一方で生き様に共感や賞賛が集まることもあったようです。

創作作品での慶次について

慶次は、漫画『花の慶次』や小説『一夢庵風流記』といった創作作品により、後世になって人気を博すようになりました。これらの作品で描かれた慶次は身長197cmもある大柄な武士で、それ以降は体格の良い大男というイメージがつきましたが、実際は身長に関する記述は存在していないようです。残されている甲冑も、他の戦国武将のものと変わらない普通のサイズのもの。創作では、格好良く見せるために大男にしたのかもしれませんね。

実在の前田慶次!気になる性格は?

大柄という外見は後世に作られたイメージだとわかりましたが、性格については実在の慶次を踏襲している部分がありそうです。傾奇者らしい伝説的な逸話をご紹介します。

有名な”水風呂”の逸話

前田利家
慶次の叔父、前田利家です。愛馬・松風号も持ち去られました。

慶次は世を軽んじたり人を小馬鹿にしたりする癖があり、叔父・前田利家からよく注意されていました。慶次はこれを良く思っておらず、ある時「これまで心配をかけてしまい申し訳ありません。これからは心を入れ替えて真面目に生きるつもりです」といって、茶を一服もてなしたいと利家を自宅に招きます。慶次が改心したと大喜びした利家がさっそく家を訪ねると、慶次は「今日は寒かったので茶の前に風呂はどうでしょう?」と勧めました。利家はこれを快諾し、二人で風呂場へ向かいます。その後、慶次は丁度良い湯加減だと言ってその場を去りますが、利家が入ってみると湯船は氷のような冷水でした。温厚な利家もこれには怒って慶次を連れてくるよう、供まわりの侍に怒鳴りましたが、すでに彼はいなくなっていたそうです。しかも利家の愛馬・松風に乗って国を去ったというのだから、利家としては怒り心頭だったことでしょう。

猿舞で目上の人を翻弄!

慶次が京都にいたころ、豊臣秀吉が諸国の大名を招いて盛大な宴を開きました。どういうわけかその席に紛れ込んでいた慶次は、宴もたけなわとなったころ、末座から猿面をつけて手拭いで頬被りし、扇を振って面白おかしく踊りながら名だたる大名たちの膝の上に次々と腰掛けました。普通なら無礼者と怒られそうなところですが、もともと猿舞の座興だったため、その場にいる誰一人としてこの振る舞いをとがめる者はいなかったのです。目上の人間を前にしても、物怖じするどころか翻弄するその強気な性格はすごいとしか言いようがありません。

しかしそんな慶次も、上杉景勝の膝にだけは乗らなかったといいます。後に慶次が語ったところによれば、景勝は威風凛然としていて、侵してはならない雰囲気があったため、どうしても膝に乗ることができなかったそうです。

前田慶次をもっと知りたい!

前田慶次
落合芳幾によって描かれた、慶次。“大ふへんもの”という旗を掲げています。

傾奇者の言葉に相応しい行動をとっていた慶次ですが、実は高い教養を身に付けていたようです。

京都で浪人生活をしたことも

もともと慶次は滝川一族の出身で、当時の前田家当主・前田利久に子供がいなかったことにより、妻の実家の滝川家から養子として送り出されました。この縁組で利家とも義理の叔父と甥の関係になったのです。

利久は尾張国荒子城の城主でしたが、病弱だったため主君・織田信長の命令で利家が前田家の当主となります。これにより慶次は利家に仕えるようになりますが、養父である利久が死去すると、前田家と縁がなくなったとして出奔します。慶次は利家やその子・利長とあまり仲が良くなく、それが主な理由だったようです。こうして前田家から出た慶次は、京で浪人生活を始めます。浪人とはいっても、連歌会に参加するといった風流な様子が見られるので、慶次にとっては快適な暮らしだったのかもしれませんね。

実在の慶次は教養が高かった

豪傑で傾奇者のイメージが強い慶次ですが、実在の彼はいろいろな文化人と交流を持ち、和歌や連歌をたしなんでいました。公家たちと和漢古今や源氏物語などの書を楽しむだけでなく、連歌は当時の第一人者である里村紹巴(さとむらじょうは)に学び、茶道は千利休七哲の一人・古田織部に皆伝を受けたとも言われています。弓馬など武芸にも秀でていたといいますから、当時の武士としてはかなり高い教養があったといえるでしょう。

直江兼続との関係性とは?

直江兼続
慶次と関わりが深かった直江兼続です。

京都で浪人生活を送っていた慶次ですが、上杉家当主・景勝やその家臣・直江兼続に認められ、上杉家に仕えるようになります。どうやら慶次は、兼続を尊敬し意気投合していたようです。そもそも上杉家に仕官したのも兼続の紹介があったからですが、それ以前の二人にどんなつながりがあったかは不明のまま。二人とも連歌会に参加していたので、学問を通じて友人になったと考えるのが自然かもしれません。お互いに妙心寺の南化和尚の弟子だったという史料もあります。

上杉家仕官後の慶次は浪人集団「組外衆」のリーダーとして1000石を与えられ、優れた戦績を残したといいます。また、関ヶ原の戦いで上杉家が米沢30万石に減封になった際は、慶次も米沢近郊に移住して米沢藩に仕えました。兼続との関係はその後も続いており、隠棲後は一緒に和歌や連歌を楽しんだり「史記」に注釈を入れたりして過ごしたようです。

人気武将の本当の性格は?

創作作品ではどんな人物も魅力的に見せるため、大げさに描かれるのは仕方がないことかもしれません。しかし慶次は、創作に負けず劣らずの傾奇者だったようです。これらのさまざまな逸話を残していることを考えると、実際の彼も十分魅力的な人物だったといえそうですね。

 

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