【大久保利通暗殺される!】紀尾井坂の変の概要と事件の影響

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【大久保利通暗殺される!】紀尾井坂の変の概要と事件の影響

「維新三傑」の一人として有名な大久保利通は、暗殺によって志半ばで倒れました。動乱の明治初期、新政府に対する不平を政府高官の暗殺という手段で解消しようとした士族らの手によって、むごたらしい最期を遂げたのです。暗殺現場は現在の東京のど真ん中でした。その手段は許されないにしても、要人暗殺の裏には、単純には割り切れない事情や思惑が隠されていることが多いのも事実です。

今回は、大久保の暗殺にはどのような動機があったのか、さらに暗殺事件が及ぼした影響や逸話などについてご紹介します。

「紀尾井坂の変」とは?

紀尾井坂

大久保利通の暗殺事件は「紀尾井坂の変(きおいざかのへん)」として有名です。どのような事件だったのか、その概要を見ていきましょう。

紀尾井町にて大久保利通暗殺される

紀尾井坂の変は、明治11年(1878)5月14日に起こりました。場所は東京府麹町(こうじまち)区麹町紀尾井町清水谷で、現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷の辺りです。いわゆる不平士族6人によって大久保が暗殺されたこの事件は、「紀尾井坂事件」とも呼ばれています。

凄惨極まる事件の状況

この日、大久保は午前8時ごろに、麹町区三年町裏霞ヶ関にある自宅を出発しました。行先は赤坂仮皇居で、明治天皇への謁見が目的だったようです。同行したのは御者の中村太郎と従者の芳松でした。
事件が起こったのは、出発から30分ほどたった頃。大久保らの乗る馬車が清水谷に差し掛かったところで、暗殺者が馬車の馬の足を切り、中から飛び降りてきた中村を刺殺。芳松はなんとか逃げましたが、書類に目を通していた大久保は馬車から引きずり降ろされて斬殺されました。その際、暗殺者に対して「無礼者!」と一喝したといわれる大久保ですが、護身用の武器も携帯しておらず、なすすべもなかったようです。

大久保利通暗殺事件の犯人と背景とは?

大久保利通
暗殺された大久保利通。なぜ彼は暗殺されてしまったのでしょうか?

大久保を暗殺した犯人は、どのような人物だったのでしょうか。彼らが事件を起こした背景には、政治的な思想が絡んでいたようです。

犯人は島田一郎を始めとする6人の不平士族

「紀尾井坂の変」の実行犯は、石川県士族の島田一郎・長連豪(ちょうつらひで)・杉本乙菊(おとぎく)・脇田巧一・杉村文一、島根県士族の浅井寿篤(としあつ)の、明治政府に反発する不平士族6人とされています。その中でも中心的人物だったのが島田です。
この頃の明治政府では、西郷隆盛板垣退助が唱えた「征韓論(武力で朝鮮を開国させようとする考え)」と、大久保や木戸孝允が唱えた「内治優先論(朝鮮制圧より国内の政治を優先させるべきだとする考え)」が対立していました。結果的に征韓論は時期尚早として敗れますが、これにより西郷は官職を退くことになります。

軍人だった島田は征韓論に賛成だったため、この西郷の下野に憤慨し、国事に奔走するようになりました。杉村文一の兄である寛正や長も台湾出兵の従軍願いを出したり、西郷の考えを聞きに鹿児島入りしたりといった履歴があり、彼らは征韓論によってつながっていったのです。
当初、政府に対してさまざまな抵抗を試みた彼らでしたが、西南戦争以後は高官暗殺という方向にシフトしていきます。杉本・脇田・杉村らが計画に加わったのはこの頃で、島根県人の浅井は警視庁巡査を免職となった後、この暗殺計画を知って仲間となりました。

暗殺に至った背景に見えるもの

大久保暗殺の動機は、島田らが所持していた「斬奸状(ざんかんじょう)」によって明らかにされています。斬奸状とは、悪人を斬るにあたりその趣意を記した書状のことです。

  • 国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している
  • 法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている
  • 不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている
  • 国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした
  • 外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている

島田らが挙げたのは上記5つの「罪」でした。西郷や板垣が国政を退いた後は、大久保が政権を握るようになったため、島田らにとっては許しがたい事態だったのでしょう。

事件の影響と残された逸話

大久保利通哀悼碑
清水谷公園にある大久保利通哀悼碑です。

この事件は後に大きな影響を及ぼしました。大久保がどれだけ偉大な人物だったかが分かる逸話も残されています。

遺体の傷跡の凄まじさ

前島密
実際に遺体を見た前島密はその凄惨な様子を伝えています。

暗殺された大久保の遺体はひどく無残な状態でした。『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』によれば、全身に16カ所の傷があり、そのうち8カ所は頭部の傷だったそうです。介錯として首に刺した刀は地面に突き刺さるほどだったとか……。実際に遺体を見た前島密(ひそか)は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と壮絶な表現をしています。

西郷隆盛の手紙と大久保利通

征韓論によって大久保と西郷はたもとを分かつことになりましたが、もともと二人は同郷で育った竹馬の友といわれています。大久保は西郷から送られた手紙を持ち歩いており、この事件の日も2通の手紙を懐に入れていました。これは家族にも内緒だったようで、大久保の本心を垣間見ることのできるエピソードといえそうです。

政府要人には護衛が付くようになった

「紀尾井坂の変」の前年、西郷は既にこの世を去っています。そのため不平士族たちが暗殺という形で目的を遂げようとすることは予測できており、警察トップの大警視・川路利良(かわじとしよし)も暗殺計画があることは知っていました。しかし川路は「石川県人に何ができるか」と高をくくり、対策をとらなかったといいます。

実はこの4年前にも、右大臣・岩倉具視が不平士族によって襲撃される事件が起こっています。この事態を重く見てしっかり対策を取っていたら、大久保は死なずに済んだかもしれません。大久保の暗殺事件を経てようやく、政府高官が移動するときは数人の近衛兵が護衛に付くようになったそうです。

国葬級の葬儀が営まれた

大久保の葬儀は大々的に行われました。大久保の邸宅には1,200名近くが集まり、費用は4,500円あまりと近代日本史上では初めての国葬級葬儀だったといいます。ちなみにこの当時の金銭価値は現在の約3,800倍であり、明治後期の警察官や教員の給料が8~9円程度だったことを考えると、この費用がどれだけ莫大だったかが分かるでしょう。また大久保が暗殺されたときに乗っていた馬車も、岡山県倉敷市の五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)に奉納され供養されました。

大久保も志半ばで散った

大久保利通像
志半ばで散った大久保。

不平士族から恨まれて命を落とした大久保ですが、実際は私財を投げ売ってまで国のために尽くした政治家でした。現金140円の遺産に対し8,000円の借金があり、それ以外の財産も全て抵当に入っていたといいますから、どれほど尽力していたかが想像できますね。暗殺当日の朝も、大久保は明治を3期に分けた30年計画について自身の抱負を語っていたそうです。前年に命を落とした親友・西郷隆盛と同様に志半ばで凶刃に倒れた大久保は、さぞ無念だったことでしょう。

 

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