【近代女性のあゆみ】日本の女優第一号はこうして生まれた・川上貞奴の生涯

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【近代女性のあゆみ】日本の女優第一号はこうして生まれた・川上貞奴の生涯

演劇や映画、テレビドラマに欠かせないもののひとつに「女優」の存在があります。歌舞伎などの伝統芸能では女性が登場しないこともありますが、そのほかの演技の場には、「華」と呼ばれるような美人女優や、「演技派」「個性派」などさまざまなタイプの女優(女性俳優)がいます。さて、それでは日本で最初の女優はどんな人だったのでしょうか。近代日本の女性の生きざまを追うシリーズ、今回は「日本の女優第一号」といわれている川上貞奴(かわかみ・さだやっこ)の生涯に迫ります。

政治家たちにかわいがられる芸妓として

パトロンとなった総理大臣・伊藤博文

日本橋で両替商を営んでいた小山家の12人目の子どもとして生まれた小山貞(こやま・さだ)。貞が生まれたのは1871(明治4)年でしたが、生後間もなく家業が傾いたため、当時花街として栄えていた芳町(よしちょう、現在の中央区日本橋人形町のあたり)にあった芸妓置屋の浜田屋に女中として預けられました。貞はその後、浜田屋の女将・亀吉(かめきち)の養女となります。これは別の家に嫁ぐための準備だったようですが、貞はそれを受け入れず頑なに拒みました。その凛とした姿勢に亀吉は見どころがあると思ったのでしょう、「小奴(こやっこ)」として芸者としての教育を施すことに。美しく賢い小奴はすぐに人気を得てあちらこちらのお座敷から引っ張りだこ、浜田屋の看板芸者となったのです。

12歳になった小奴は、亀吉の選んだ男に「水揚げ」をされ、本格的な芸妓としてデビューすることとなります。男はとんでもない大物で、当時の総理大臣であった伊藤博文。伊藤は奴(水揚げをされたことで一人前になり、名前から「小」がとれました)とは30歳ほども年上でしたが、彼女のことを大変に気に入り、パトロンとして世話を焼き続けます。そんな縁から伊藤の周囲の政治家たちとも奴は懇意になってゆきました。

しかし、芸妓として当時の総理大臣からかわいがられていた奴もまだ少女、ある時初恋が訪れました。相手は岩崎桃介(いわさき・ももすけ)という慶應義塾の学生です。しかし、この恋は実ることはありませんでした。貧しい身の上だった桃介は、塾長の福澤諭吉から持ちかけられて、1886(明治19)年の暮れに諭吉の次女・房(ふさ)と結婚、一路アメリカへ旅立ってしまったのです。貧しかった桃介には断るという選択肢はありませんでした。人気芸妓として、あまたの政治家たちをとりこにした芳町の奴の初恋は、悲しい結果に終わりました。

川上音二郎という男

川上音二郎像(福岡県福岡市)

桃介が福澤家に入る少し前、慶應義塾で雑用をしたり、書生として学んだりしていた男がいました。彼はその後政府に反対する自由党の壮士に。その名は川上音二郎。1864(文久4)年に現在の福岡市博多区で生まれ、継母との折り合いの悪さから出奔して東京へ流れ着いていたのでした。当時さかんだった自由民権運動に身を投じるようになった彼は、1883(明治16)年頃から「自由童子」という名を用い、大阪を拠点として政府攻撃などを行ってたびたび検挙・投獄されていました。

そんな生活の中で音二郎は落語家の桂文之助に弟子入りし、浮世亭◯◯(うきよてい・まるまる)の名で、これまでも違う歌詞で何人かが歌い継いできた「オッペケペー節」を自分流にアレンジし、寄席で歌いはじめました。この歌は「壮士歌」とも言われる種類のもので、政治を皮肉った演説でもありました。

権利幸福嫌ひな人に 自由湯をば飲ましたい
オッペケペ オッペケペ
オッペケペッポーペッポッポー
固い裃角取れて マンテルヅボンに人力車
いきな束髪ボンネット 貴女や紳士のいでたちで
外部の飾りはよいけれど 政治の思想が欠亡だ
天地の眞理がわからない 心に自由の種を蒔け
オッペケペ オッペケペ
オッペケペッポーペッポッポー

威勢がよく、リズムが心地よく、なにより的確に時代を風刺した「オッペケペー節」は、社会への不満を募らせていた人々に広く受け入れられました。特に1994(明治27)年の日清戦争のころにブームはピークを迎え、多くの人が「オッペケペッポーペッポッポー」と口ずさんでいたようです。大阪で火が付いた「オッペケペー節」でしたが、東京でも大流行しました。

また、音二郎の率いる一座は「オッペケペー節」のほかに風刺芝居を行い、壮士芝居と呼ばれました。壮士芝居を続ける中で演劇に興味を持った音二郎は、1893(明治26)年に渡仏しパリの演劇事情を学んでいます。

音二郎と貞の出合い、そして「女優」の道へ

音二郎と貞奴

1994(明治27)年、貞は芸妓をやめて音二郎と結婚します。媒酌人は伊藤博文の秘書で、大日本帝国憲法の草案作りに携わったことでも知られる金子堅太郎が務めました。二人の出合いはよくわかっていませんが、この結婚こそがのちの「貞奴」が生まれるきっかけとなります。しかし、結婚しても政治への意欲が尽きない夫の音二郎、衆議院選挙に二度出馬しましたが、二度とも落選してしまい資金難に陥ることに。そこで意欲を失って、下田からあてもなくいかだで海へ出てみた二人でしたが、結局はまた下田に戻るという始末でした。

そうしたなか、川上音二郎一座は無謀とも思われるアメリカへの公演旅行に出かけることを決め、貞もそれに同行します。アメリカでは壮士芝居ではなく、日舞などの公演を中心に行い、妻の貞も芸妓時代に身に付けた華麗な舞を披露しました。貞のエキゾチックな美貌と演技が評判になり、たいそうな人気を集めたことで、貞は一躍一座の看板となりました。このアメリカ公演の時には講演資金を持ち逃げされるという事件も発生しましたが、音二郎の考案による「芸者と武士」という演目のシアトルでの公演が成功したことと、当地の日本人の支援でなんとかのりきることができたのでした。

こうして音二郎の思い付きから「女優」となった貞は「貞奴」と名乗るようになります。アメリカから帰国後もロンドンやパリ万国博覧会(1900<明治33>年)に招かれて公演を行い、「マダム貞奴」としてヨーロッパにもその名をとどろかせました。貞奴の人気はとても高く、彫刻家のロダンにモデルになるよう請われたり(実現せず)、着物を模した「ヤッコドレス」が流行したりして、フランス政府から勲章を授与されるほどでした。

正劇女優として

舞台衣装を身にまとった貞奴

パリからの帰国後、貞奴は引き続き川上音二郎一座の看板女優として日本でも舞台に立つこととなります。上演したのはシェイクスピアの「オセロー」の翻案劇(役名などを日本風にアレンジしたもの)で、こうした芝居を音二郎は「正劇」と呼びました。音楽や舞踏を伴わないいわゆるストレートプレイで、旧来の歌舞伎などとは違う「新劇」のひとつです。新時代の演劇の創造をめざす新劇は、かつて新しい政治を「オッペケペー節」で歌った音二郎の精神に合っていたのかもしれません。

かくして貞奴は「日本第一号」の女優として、他の新劇とは一線を隔した「ハムレット」「ヴェニスの商人」などの翻案劇を中心に演じ続けることになります。同時に1908(明治41)年には「帝国女優養成所」を設立、音二郎と二人で次なる女優の育成に力を注ぎました。新しい演劇の隆盛により、女優が必要とされるようになっていたのです。そのため、当時は他にも俳優の養成所がいくつも設立されており、1909(明治42)年には貞奴と並んで近代演劇史に名を遺した松井須磨子(まつい・すまこ)を生んだ文芸協会付属演劇研究所が創設されています。

このように、日本の演劇界をさらに盛り上げていこうとしていた音二郎と貞奴でしたが、急性腹膜炎のために音二郎は48歳で世を去ってしまいました。1911(明治44)年の11月のことで、最後を迎えつつある音二郎を、貞奴は二人でつくり上げた洋風の劇場である帝国座(現在の大阪市中央区北浜)の舞台に上げました。舞台の上で舞台人として音二郎は息を引き取ったのでした。

1936(昭和11)年の著作「近代美人伝」中に「マダム貞奴」の文章を残した女性作家の長谷川時雨(はせがわ・しぐれ)は次のように書き残しています。

「かげでこそオッペケペなぞと旗上げ当時を回想して揶揄するものもあったが、演劇界に新たな一線を劃(かく)すだけのことを川上はやり通した。そして、それと同時に、川上の成功に比して劣らぬ地歩を貞奴もしめたのである。艱難に堪え得た彼女の体が生みだした今日の成功と名誉である。けれど、けれど、けれど、其処に川上という具現者がなくて彼女の今日があったであろうか。いえ、それは誰れよりもよく、当の貞奴が知っている」

女優・貞奴を生み育んだ音二郎。二人はお互いになくてはならない存在であり、二人だったからこそ、日本の演劇界に新たな風をもたらしたといえるでしょう。

女優引退、そして新しくもなつかしい生活へ

貞奴と桃介が過ごした「文化のみち二葉館」

音二郎の死後も、その意思を継ぎ貞奴は舞台に立ち続けました。ですが、ほどなくして引退興行を行い女優の看板を下ろしました。

ところで、貞奴の初恋を覚えているでしょうか。福澤家の婿養子となった初恋の人・桃介は実業家となり、名古屋電灯をはじめとした数々の電力会社の重役を務め、日本各地に電気をもたらし「電力王」と呼ばれるほどでした。電力以外にもガスや鉄道など多くの企業で役職につき、近代の経営史にしっかりと名を残す仕事をしています。それだけではなく、1912(明治45)年から1914(大正3)年までは衆議院議員も務めました。

桃介はその人生の後半、多くの時間を貞奴とともに過ごし、様々な場所へ同伴したといわれています。木曽川の大井ダムでは、貞奴が桃介について谷底へ下りたというエピソードも残っているほど。そんな二人は1920(大正9)年ごろから名古屋市で同居を始めたとされています。もう若くはない二人でしたが、とても仲睦まじかったようです。二人が暮らした邸宅は「二葉御殿」と呼ばれ、現在も「文化のみち二葉館」として残されています。

桃介の実業界引退後は、東京・永田町の日枝神社近くにあった桃介の別邸「桃水荘」で二人は暮らしました(本邸は現在、渋谷区の恵比寿プライムスクエアが建っている場所にありました)。桃介は妻と離婚しないまま1938(昭和13)年に死去、貞奴はそれから8年後の1946(昭和21)年12月9日に熱海の別荘で生涯を終えました。桃介の妻・福澤房が亡くなったのはそれよりさらにのち、1954(昭和29)年のことでした。

貞奴を偲ぶ場所

貞奴の墓がある貞照寺

音二郎と貞奴、そして桃介と房。彼らの関係や「女優第一号」の貞奴の存在が広く知られるようになったのは杉本苑子の小説「マダム貞奴」「冥府回廊」が大河ドラマ「春の波涛」として1985(昭和60)年に放送されて以降のことです。ドラマの最後は貞奴を演じた松坂慶子が貞奴の墓所であり、彼女が私財を投じて建立した岐阜県各務原貞照寺(ていしょうじ)に参詣するシーンでした。日本の女優第一号はいま、何を思いながら眠っているのでしょうか。

いま、日本では多くの女優が活躍し、多くの人が女優を目指して稽古に励んでいます。その礎を築いた川上貞奴。芸妓から壮士の妻となり、やがて世界に知られる女優となった彼女の名は、日本の演劇史に燦然と輝き続けることでしょう。

<参考サイト>
文化のみち二葉館 名古屋市旧川上貞奴邸
貞照寺門[ていしょうじもん]
福沢桃介記念館
「電力王 福澤桃介」(「三田評論」2010年5月号)

 

■シリーズ連載「近代女性のあゆみ」
第1回:日本初の女性医師・荻野吟子の生涯

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