【三島弥彦の生涯】金栗四三と並ぶ日本人初のオリンピック選手

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【三島弥彦の生涯】金栗四三と並ぶ日本人初のオリンピック選手

2020年の東京オリンピックが迫る中、2019年に放送予定の大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』が注目を集めています。この作品で主役となる長距離ランナー・金栗四三の盟友として登場するのが、短距離ランナー・三島弥彦です。三島は金栗と並ぶ日本人初のオリンピック選手ですが、アスリートとしての経歴はそれほど目立ったものがありません。というのも、陸上競技に人生の全てをかけた金栗に対し、三島は途中でビジネスマンへと転身したからです。それでも歴史に名を刻んだ三島とはどのような人物だったのでしょうか。

今回は、三島の生い立ちから人物像、残された逸話やオリンピックでの成績、その後の生活についてご紹介します。

三島弥彦の生い立ちと人物像

三島はどのような出自だったのでしょうか。その人物像について見ていきます。

名門家系の御曹司として生まれた

三島通庸
三島の父である三島通庸は、警視総監を務めていました。

三島は、明治19年(1886)2月23日に東京府東京市麹町区(東京都千代田区)で生まれました。父は警視総監の三島通庸(みちつね)、兄は銀行家の三島彌太郎(やたろう)という名門家庭に生まれましたが、2歳のとき父を亡くし、学習院大学を経て東京帝国大学(東京大学)法科に進学します。
成人男性の平均身長が155cm程度だった時代に170cmを超える長身を誇り、学習院時代は野球部のエース兼主将、ボート部では一軍選手、その後の東大時代にはスキー・柔道・乗馬・相撲・スケートを行うなど、スポーツ全般に秀でた青年時代を送りました。選手以外に審判も務めるなど、さまざまな才能に恵まれていたようです。

どんな人物だったのか?

三島は数々のスポーツを修めていましたが、おっとりした性格だったといわれています。これは彼の育ちのせいもあるかもしれません。三島が所属していた天狗倶楽部(てんぐくらぶ)の中心人物・押川春浪(おしかわしゅんろう)は、彼のことを「大の楽天家で暢気(のんき)な先生。度量の大きい、些事(さじ)に無頓着なあくまでも鷹揚(おうよう)な人」と述べています。

またスポーツマンだったことが影響しているのか、学生や若者から人気があり、雑誌『冒険世界』の「痛快男子十傑投票」という読者投稿企画の際には、運動家部門で堂々の1位を獲得しています。全体的に人に好かれる人柄だったのかもしれませんね。

オリンピック予選大会に飛び入り参加!?

陸上競技

文武両道だった三島ですが、いったいどのような理由でオリンピック出場となったのでしょうか。そこには面白いエピソードが隠されていたようです。

三島が所属した天狗倶楽部

三島は天狗倶楽部というスポーツ社交団体に所属していました。この団体は戦前の日本に存在したもので、前述の押川を中心として広がりを見せていきました。
入退会に特別な手続きはなく会員名簿も作られなかったため、メンバーと非メンバーの境界は曖昧でしたが、多いときには約100人のメンバーを抱えていたといいます。活動内容は野球を中心に相撲・テニス・柔道・陸上・ボートなど多岐にわたり、活動後の宴会の光景も含め雑誌や新聞に面白おかしく執筆されたため、読者からは大きな支持を得ていました。

しかし、押川や主要メンバーの死が続くと徐々に活動は弱まっていき、1930年代には自然消滅してしまいます。天狗倶楽部は野球や相撲といった黎明期のアマチュアスポーツの拡大に尽力し、野球界で殿堂入りする人物を5人輩出するなど、確かな功績を残しました。

審判として予選会に参加のはずが……

三島が陸上競技に夢中になりつつあった明治44年(1911)のこと、ストックホルムで開催される「第5回国際オリンピック大会」の代表を決定する「オリムピク大會予選競技会」が羽田運動場で行われることになりました。三島のもとには審判委員として来場の要請がありましたが、彼はこれに応じず、友達と一緒に外野で観戦しようと思っていました。ところが、いざ本番になるといてもたってもいられなくなり、飛び入り参加してしまったのです。この時の三島は久しく練習していませんでしたが、とにかく走ってみようと思い参加したところ、なんと100m、400m、800mの各短距離徒で1位、200mで2位を獲得します。

この予選会では、後藤欣一が立高跳びで優勝、泉谷祐勝が立幅跳びで優勝、霜田守三らが走幅跳び優勝など優秀な成績を納めましたが、選手団をストックホルムに送る予算の都合もあり、マラソン競技に出場予定の金栗と短距離の三島が選手に選ばれました。

オリンピックでの三島

金・銀・銅メダル

飛び入り参加からオリンピック出場を決めてしまった三島ですが、その結果は意外なものでした。オリンピック後の三島はどのような状況に陥ったのでしょうか。

予選敗退の悔しい結果

明治45年(1912)5月16日、家族や天狗倶楽部のメンバーらが見送るなか、三島は新橋駅からオリンピック会場であるストックホルムへと旅立ちました。開会式が行われたのは同年7月6日のことで、出場選手はたった2名だったためあまりに行列の人数が少なく、日本人記者はこの様子を見て「かえって周囲の同情をひいた」と語っています。

そのような中、ついに短距離走の予選に出場することになりましたが、三島は最初の100mの予選でさっそく1秒以上の差をつけられて敗退してしまいます。陸上競技についてのさまざまな技法や心得を教授してくれたアメリカ大使館書記官・キルエソンに助言を求めることもできなかったため、三島はすっかり意気消沈し、金栗にも「日本人には短距離は無理だ」と語ったほどでした。200m予選では最下位となり、400m予選はアメリカの選手が棄権したこともあって準決勝進出まで進みましたが、右足の痛みが激しかったため棄権してしまいます。しかし近年では、この棄権は「精神や肉体の困憊のため」か「勝機がなかったため」と見ているようです。

次期オリンピックのドイツを視察した

金栗の競技が終わった後、三島は4年後のベルリン大会での雪辱を誓い、閉会式を待たずに次のオリンピック開催国ドイツに向かって会場視察を行いました。まだ日本では知られていないスポーツ用品も仕入れ、次期オリンピックでのリベンジを狙う三島でしたが、この大会は第一次世界大戦のため中止になってしまいます。

8年後の大正9年(1920)にはアントワープ大会が開催されましたが、このときの三島は既にオリンピックに出場できるような肉体を失い、選手としてのピークを過ぎていました。そのため予選にも姿を見せず、その後は表舞台から姿を消してしまったのです。もしベルリン大会が開催されていたら、三島の人生はまた違ったものになっていたかもしれません。

引退後は銀行マンに!

三島彌太郎
三島の兄・彌太郎です。

陸上選手引退後の三島は、兄の彌太郎がいる横浜正金銀行に入行しました。青島支店の支配人を経た後は、本店に戻って検査人に就任しています。スポーツに長けていた三島ですが、大学卒業後はすっかり業界から退いており、その後金融業界からスポーツ界に戻ってくることはありませんでした。そのことが知れ渡ったのは、昭和29年(1954)2月1日に目黒区で死去したときだったといわれています。

根っからのスポーツマンだった

陸上のトラック

スポーツ・勉強ともに得意だった三島弥彦は、まさに文武両道の人物でした。オリンピック予選に飛び入り参加して大会出場のチケットを手にするなど普通では考えられないような驚異のエピソードを持っていますが、本人の性格は意外にも温厚でおっとりしていたようです。一緒にオリンピックに参加した金栗がその後の人生をオリンピックにかけた一方で、三島はスポーツの世界から退くことになりました。それでも日本人として初めてオリンピックに出場したという彼の輝かしい功績は、いつまでも色あせることはないでしょう。

 

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