【今川義元の最期と首】信長による奇襲!桶狭間の戦いの結末

未分類
【今川義元の最期と首】信長による奇襲!桶狭間の戦いの結末

「海道一の弓取り」と呼ばれた戦国武将・今川義元。今川家の第11代当主として駿河国・遠江国(現在の静岡県)を治めていた義元は、武田信玄や北条氏康とは義兄弟の関係でもありました。
そんな義元が敗れた相手こそ、あの織田信長です。信長は「桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)」で義元を破り、天下統一の第一歩を踏み出しました。

今回は「桶狭間の戦い」の概要と義元の最期、また討ち取られた義元の首にまつわる逸話をご紹介します。

桶狭間の戦いの概要

桶狭間の戦いの史跡

「桶狭間の戦い」は、永禄3年(1560)5月19日に尾張国桶狭間(現在の愛知県)で起こった合戦です。日本史上でも有名な戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)にも数えられています。

大軍を率いて尾張に攻め込んだ義元

今川家を継いだ義元は、近隣の武将たちと手を組みながら領土を拡大していました。織田信秀の死により信長と弟の後継者争いが勃発すると、その混乱に乗じ尾張の一部を手に入れます。そしてついには、尾張を自分のものにしようと動き出したのです。

その頃の信長は、身内の抗争を経て尾張を治めたばかりでした。駿河・遠江・三河の三国を治める義元との差は歴然で、2万5千人の大軍で押し寄せた今川軍に対し、織田軍は3千~5千人程度だったといいます。
信長の家臣たちは籠城するか戦うかで意見が割れましたが、信長本人は動揺もせず敵が近付く中でも寝ていたのだとか。ところが、今川軍が丸根砦と鷲津砦に攻め込んだという報せを聞いた途端、信長は行動を起こしたのです。

少数の兵で奇襲を仕掛けた信長

合戦の前日に今川側の松平元康(のちの徳川家康)が大高城に兵糧を運び込んだと知った信長は、丸根砦・鷲津砦の2つの砦が攻撃されれば、義元も大高城に入ってくると考えていました。大高城に向かうには「桶狭間」という長くて狭い道を通る必要があるため、ここに勝機を見出したのです。

丸根砦・鷲津砦が昼前に陥落したため、大高城に急ぐ必要がなくなった義元は全軍に小休止を命じ桶狭間付近に陣をひきます。そこで信長勢は農民に変装して、今川勢に酒や食事を振舞いました。そして今川軍に察知されることなく、桶狭間で休息をとっていた今川本陣を急襲したのです。信長はあらかじめ今川軍の位置情報をよく収集していたため、これが奇襲成功の理由といわれています。

今川義元の壮絶な最期!

今川義元
落合芳幾によって描かれた今川義元です。

信長の奇襲により、今川軍は敗走し、義元は壮絶な戦死を遂げました。その最期とはどのようなものだったのでしょうか。

豪雨の中の乱戦となった

信長が奇襲を決行した際、突如として豪雨が降りました。これは視界を妨げるほどのもので、今川軍は織田軍が迫ってくるのが分からなかったといいます。
義元を守る本陣の兵力は5千人程度だったため、戦力が拮抗した結果、最終的には大将同士が刀や槍をふるう乱戦となりました。
『信長公記』によれば、義元は300騎の兵士に守られながら騎馬で退却しようとしたそうです。しかし、周囲の兵士を攻撃されて失い、信長軍の馬に追いつかれてしまいました。

毛利良勝によって討たれる

今川義元最期の地

信長の馬廻りを務めていた服部一忠によって一番槍を刺された義元は、これを返り討ちにしたものの、毛利良勝によって討ち取られました。『改正三河後風土記』によると、義元は首を斬られる際に良勝の左指を喰い千切ったそうです。死んでも一矢報いようという思いの表れなのか、なんとも壮絶な最期ですよね。

義元が戦死すると、今川軍は総崩れとなり撤退しました。長福寺(名古屋市)に所蔵されている『桶狭間合戦討死者書上』によれば、今川方の戦死者は2753人、織田方の戦死者は990人ほどだったそうです。

義元の首の行方とは?

尾州桶狭間合戦
歌川豊宣によって描かれた「尾州桶狭間合戦」です。

「桶狭間の戦い」で討たれた義元ですが、その首はその後どうなったのでしょうか。義元の首にまつわる逸話についてご紹介します。

須ヶ口にさらされた

義元の首は、長福寺で首実検にかけられました。これは敵の首級の身元を判定するもので、本当に申告者の戦功かどうかを確かめる場でした。大将や重臣は首を提出させ、相手の氏名、討ち取った経緯などを確認した上で戦功を承認したのです。戦国時代においては、実績を認めてもらうための大切な作業でした。
義元の場合は、彼の茶坊主だった林阿弥(りんあみ)がこれを命じられました。そしてその後、義元の首は清須市の須ヶ口という所でさらされたのです。

信長も感服!岡部元信の忠義

義元の死により撤退した今川軍でしたが、岡部元信だけは鳴海城を守って奮闘を続けていました。彼は信長の部隊を撃退し、主君である義元の首と引き換えに城の明け渡しを申し出ます。信長は元信の忠義に感動し、義元の首を丁寧に棺に納めて送り届けました。
元信は主君の棺を輿に乗せて先頭に立て、泰然と鳴海城を引き払ったそうです。また、ただ敗走するのは潔くないと、駿河へ帰還する道すがら刈谷城を攻め落としたのだとか。
首とともに引き渡された兜は岡部家に伝わり、現在は三の丸神社(大阪府岸和田市)に奉納されています。

首塚と胴体塚の所在地について

今川義元の墓碑
桶狭間古戦場伝説地にある、今川義元の墓碑です。

義元の首は腐敗していたこともあり、今川家と縁のある東向寺に塚を築いて埋葬されました。この地に2名の武士が残り、代々その墓を守ったそうです。
それ以外にも、駿府で埋葬したのち今川家の菩提寺・臨済寺に移したという説があり、こちらにも義元の墓、位牌、霊廟などがあるようです。
胴体については、戦場から家臣が運び出したものの損傷がひどく、大聖寺(愛知県豊川市)に葬られました。義元の嫡子・今川氏真は、ここで三回忌を営んでいます。

愛刀:宗三左文字は信長の元へ

「桶狭間の戦い」では、義元の愛刀・宗三左文字(そうざさもんじ)が信長に分捕られました。この刀はもともと四国の三好政長が所持しており、武田信玄の父・信虎に贈られたのち、武田家から義元へと贈られたものです。
信長はこの刀を入手すると、何度も試し斬りさせ、普段から腰に差して使用していたといいます。また、自分に合うサイズに直し、義元を討った経緯などを記念として刀の茎(なかご)に入れさせたそうです。

太守様と呼ばれる義元

今川義元の像

2万5千人といわれる大軍を率いて進軍するも、5千人に満たない信長の奇襲によって最期を迎えた義元。彼は太守様と呼ばれていましたが、これは多くの国を支配している守護大名のことを指しています。義元はそれほど大きな力を持っていたにもかかわらず、敗者となってしまいました。
この戦いに勝利していなければ、信長の天下はなかったかもしれません。日本史上でも有名な「桶狭間の戦い」は、信長の名を世に知らしめるものとなったといえるでしょう。

 

<関連記事>
【信長はやっぱり凄い】孫子で検証する桶狭間の戦い
【蹴鞠だけじゃない!?】今川家のプリンス・今川氏真の評価とは?
【あの武田信玄も怖れた!】今川家を支えた女戦国大名・寿桂尼

Visited 1 times, 1 visit(s) today
READ  【 日和見?見識?】 戦国の世を泳ぎ切った風流人・織田有楽斎

コメント

タイトルとURLをコピーしました