【新選組の生き残り】北海道で余生を送った二番隊隊長・永倉新八

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北海道は、2018年に命名150年を迎えました。これを記念し、「ほっかいどう百年物語」という番組でこれまで数多くの北海道の偉人たちを紹介してきたSTVラジオによる連載企画がスタート。第10回は、新選組二番隊の隊長をつとめ、新選組最強の剣客の一人といわれた「永倉新八(ながくら しんぱち)」です。


幕末、徳川家に忠義を尽くし京都を舞台に薩・長藩と戦った新選組は、動乱の果て、悲惨な末路をたどりました。新選組幹部13名のうち生き残ったのは、二番隊長の永倉新八だけだったのです。新選組の四天王と謳われた永倉新八は明治維新後北海道へ渡り、小樽で余生を送りました。

生涯剣の道に生きた男

明治14年、北海道に初めての刑務所が、月形町に設置されました。この樺戸集治監に全国から収容された囚人は、およそ2千名。彼らに課せられた労働は、土地や道路を切り開くことでしたが、それを達成するには、厳しい自然条件や激しい肉体労働と闘うための体力が必要でした。そこで刑務所長は彼らを直接指揮する看守たちに剣術を教えることによって、課せられた労働を達成しようとしました。その時、指導者として招かれたのが、杉村義衛(すぎむら よしえ)という40代の男性でした。杉村のまっすぐに伸びた背筋、鋭い眼光は、まさに武士道であり、人々を圧倒しました。

彼の剣術指導はとても厳しく、時には看守たちも音を上げましたが、杉村は明治15年から4年間、この樺戸集治監で看守の剣術指南を務めました。そののち、北海道大学でも剣道の指導をし、余生を送りました。生涯剣の道に生き、多くの人々に剣の心を広めた男、杉村義衛。彼こそが、幕末の京都で人々から恐れられた、新選組きっての剣の使い手・永倉新八だったのです。

剣の腕を磨き続けた青年時代

のちの杉村義衛こと永倉新八は、1839年、江戸の松前藩邸で産声を上げました。父は代々、松前藩の江戸藩邸に勤める藩士で、藩主からの信頼も厚い定府取次役(じょうふとりつぎやく)でした。長男の新八は両親に大切に育てられましたが、跡継ぎを望む父の期待に反して、読み書きには全く興味を示さず、いたずらや戦ごっこばかりする、やんちゃ坊主でした。息子の腕白ぶりはさすがの親の目にもあまり、父は精神鍛錬のため、8歳の新八を剣術修行に出しました。新八は、厳しい稽古にも耐え、1年1年技に磨きをかけていき、18歳の時には、道場屈指の腕前となりました。父にとっては行儀の悪さを正すつもりの剣術修業だったはずが、今やそこに青春の全てをかける新八の将来に不安を抱きました。

「新八、お前もゆくゆくは永倉の当主となる身じゃ。剣術もよいが書物も読め。侍勤めがどういうものかを知っておかねばならぬ」

家督を継ぐことはこの時代当たり前のことであり、それに背くことなどあってはいけないことでした。

「私は……私は剣の道で生きていきたい。剣には人間の弱さ、強さが全てある。この中で自分自身をもっと、もっと鍛え上げて行きたい。宮仕えを望む父上には逆らってしまうことになるが、私は、私の道を全うしたい……」

新八はこの思いを言葉で伝えることを避け、書置きを残しました。

「お父上、お母上、これまで育ててくださった御恩は決して忘れません。この新八、自分の道を生きとうございます。剣の道を全うしとうございます。この身勝手、お許し下さるとはとうてい思えませぬゆえ、黙って家を出ます。何とぞ何とぞ、この愚息を勘当して下され」

永倉新八、19歳の秋でした。

父に逆らい、決死の覚悟で手に入れた自由。新八は、その日から修業の鬼となり、益々剣に没頭していきました。近隣の道場にはその相手となる者がいなくなった4年後、23歳の新八は、武者修行の旅に出かけました。各地の道場を破りながらその剣の腕を着実に上げて行きました。

運命を変えた近藤勇との出会い

日野市にある天然理心流道場跡

ある時偶然立ち寄ったのは、江戸の牛込にある「天然理心流・試衛館」という小さな道場で、師範は近藤勇という5歳年上の男でした。小太り気味の新八とは違い、近藤の細く切れ長の目にがっしりとした筋肉質の体格は、一種の威圧感がありました。早速試合を申し込み、立会いが始まりました。腰を据え気味に低く構え、鋭い目つきで睨みつける新八に対し、近藤は穏やかな目つきとなり、腹を突き出したまま竹刀を構え、微動だにしないのです。

「この構えは何だ。この私を馬鹿にしたような態度、天然理心流とは名ばかりか・・・」

「勝てる!」と思うまもなく、新八は飛び込みました。「面!たぁっ!」

竹刀と竹刀がぶつかったその瞬間、新八の得意技、巻き落としは見事に決まり、近藤の竹刀は床に転がりました。素手となった近藤に、新八はすでに勝ったと思い、近藤の「まいった」の言葉を待ちました。ところが、近藤はすぐさま両手を新八めがけて突き出し、身構えたのです。

(まだ闘うつもりか・・・それならば・・・)

と、飛び掛ろうとしたその瞬間、近藤の針のような細く鋭い眼光が新八の目に飛び込んできたのです。

(打ち込めば竹刀をつかみとられる!)

本能が新八の動きを止めました。今、もし近藤が、刀を持っていたなら、自分が押さえ込まれ首をとられてしまうと即座に判断したのです。自分の死を感じとってしまった新八の全身からは冷や汗が吹き上がりました。

「いや!お見事、お見事!」

近藤は構えをゆるめ、微笑みかけてきたのです。

「まいりました」

そう言いかけて、新八は思わず息を飲みました。

(この俺が・・・負けた―)

これまで味わったことのない屈辱感が広がりました。

「こりゃあ良い人がみえた。永倉どの、これからも時々やってきてください。この道場のみんなのためになる」

近藤の言葉には、心底嬉しそうな響きがありました。

(負けた俺の腕を心からたたえてくれている。近藤勇、けた外れに強い!)

この日以来、新八は近藤に強く惹かれました。初めて自分以外の男の技と力量を認めることができたのです。以後、度々試衛館を訪れるようになり、新八は近藤に絶大な信頼を置くようになっていきました。そして、近藤のもとで剣を学ぶ土方歳三沖田総司らとも親交を深めていきました。

この頃日本には、開国を求めて続々と外国船が押し寄せていました。それらに対し弱腰な態度を取り続ける幕府に不満を抱いた志士たちが、尊王攘夷を唄えて全国から京都に集まっていました。幕府を倒し、天皇による新しい国造りを叫ぶ志士達の不穏な動きの中、御所のある京都の治安を守ることが徳川幕府の急務でした。徳川将軍のお膝元の地で幕府に忠誠を誓う近藤たちは、これを深刻に見守っていました。

「皆聞いてくれ。いつ何が起こるやもしれんこのご時勢、剣術をやるのも、ただ人を斬るためだとか、試合に勝つためだとか思うな。我々は剣を学ぶことで、いかなる危機をも切り抜けていけるだけの人間にならねばならんのだ」

近藤の言葉は一同の心に深く染み入りました。もちろん新八も、幕府の敵は自分の敵でした。新八の松前藩は、家康以来徳川幕藩体制の中でその立場を築いてきた藩だったのです。

ある日、試衛館に浪士隊募集の知らせが舞い込みました。浪士隊とは、腕の強い浪人たちを幕府が雇い、京都に移った将軍家茂の警備と、京都の治安維持にあたらせようというものでした。

「近藤先生!」

腕を試す絶好の機会に一同の胸は高鳴りました。

「我々もこの浪士隊に参加して、存分に腕をふるまい、天下に名をあげるべきだ。今こそ幕府のお役に立てる時ではないか、近藤さん」

1863年、近藤を筆頭に、土方歳三、沖田総司など試衛館の仲間達と共に25歳の永倉新八も京都へ旅立ちました。

新選組の誕生

壬生にある新選組屯所跡( 京都府京都市)

京都の壬生に落ち着いた彼らは、京都警備を預かる会津藩主のもので「壬生浪士隊」を結成しました。剣の強さでは誰にも負けない彼らは勤皇の志士たちから大いに恐れられました。禁門の変では、治安を乱す長州藩の脱藩浪士らを四散させる活躍を見せ、幕府より「新選組」の名を賜りました。局長近藤勇、副長土方歳三、一番隊隊長に沖田総司、そして二番隊隊長には永倉新八が就任しました。以下総勢80名。永倉新八はこの時、新しい人生を歩み始めました。

新選組において、永倉新八は乱闘や事件の解決など、数え切れないほどの働きをみせました。なかでも長州藩士らが京都の市中で大規模な騒乱を企てたとする池田屋事件では、近藤達とたった5名で池田屋に乗り込み、左の親指を切り落とすほどの大怪我を負いながらも果敢に奮闘しました。

しかし、この池田屋事件で新選組が脚光を浴び始めて以来、近藤の発言や立ち振る舞いは少しずつ変わっていきました。

「私は諸君を率いて、徳川幕府の起死回生の源となり、陣頭に立って進むつもりである。私を信じ、どこまでもついてきてもらいたい!」

雄弁に演説する近藤の姿に、新八は首をかしげました。

「諸君……とは、俺たち試衛館の仲間も入っているのか。いかにも近藤さんは新選組の局長だが……我々は志を一つにした仲間だ。こっちへ来て隊に入ったものとはわけが違う。俺たちは近藤さんの家来じゃない、同志だ」

これまで絶対の信頼を置いてきた近藤に対する小さな不信感。それは。新八の中で次第に大きくなっていきました。

近藤との決別

新政府軍に捕まった近藤は板橋で打ち首となりました。

その後も新選組は幕府存続のために働き続けましたが、その必死の努力もむなしく、1867年、ついに幕府は大政奉還し、朝廷へ政権を返してしまいました。ここに新選組の拠り所は消えてしまったのです。それでも幕府再興を願う武士たちは新政府を作ろうとする薩摩・長州に敵対し、鳥羽・伏見の戦いを起こします。藩・長藩は幕府側全ての勢力を滅ぼすため、会津藩や新選組に戦いを挑みました。幕府軍は総勢2万4千名の兵で新政府軍に臨みましたが、大砲や銃で武装した近代的な軍隊に勝つことはできませんでした。

体勢を整えるため一時撤退した新選組は、この時最盛期の300名から44名にまで減っていました。しかも、その少ない同志たちも江戸に到着するまでに散り散りに逃げてしまい、残ったのはわずか27名でした。かつては京都の町で恐れられた新選組の組織力、結束力は完全に失われてしまったのです。江戸で新たに140名ほどの仲間を集め、再び戦いに挑みますが、またも敗退。新八は今後の対策をまとめ、近藤に切り出しました。

「近藤さん、やっぱり会津藩のもとへ行こう。これ以上戦っても今の我々に勝ち目はない。今ここに会津へ行くという者は24名いる。近藤さんも我々と一緒に生き、戦いましょう」

仲間の命を大切にする近藤なら、必ず同意してくれる。新八はそう信じていました。ところが、近藤は怒りをあらわにして言い放ったのです。

「皆は、新選組の局長が誰であるのかを忘れたのか!勝手にことを決め、局長である私に意見を述べるとは……言語道断である!」

呆然とする新八を横目に、近藤はなおも続けます。

「……しかし、以後何事においても私の采配に従うというなら同意してやってもよい」

(この人は、もはや敬愛する近藤勇ではない。ここにいるのは、新選組局長という立場に執着するただの男だ。俺が命をかけて共に戦うと誓ったあの近藤さんではない!)

新八はついに覚悟を決め、言いました。

「私は同盟こそしていたが、あなたの家来になった覚えは一度もない。あなたがそのような考えならば、私が新選組の一員である理由はなくなった」

2人はこの時、袂をわかちました。新八の本心は近藤勇に最後までついていきたかった。近藤への尊敬と信頼を途中で曲げたくなかった。正に断腸の思いの決断でした。

この後二人は二度と再会する事はなく、新八は会津へ、そして近藤は江戸で新政府軍に捕らえられ、武士として最も屈辱である打ち首の刑に処せられたのです。運命の年、慶応4年は、9月8日をもって、明治元年となりました。

新たな時代を生きる

最晩年に札幌で撮影された写真です(前方中央が永倉)

会津での奮戦も虚しく、命からがら江戸に戻った新八は松前藩邸に逃げ込み、家老の計らいで、国もとの北海道・松前へ渡ることとなりました。明治2年、永倉新八31歳。すでに両親も仲間もこの世にはなく、たった一人での人生の再出発でした。ここで彼は、松前藩お抱えの医師、杉村松柏(しょうはく)の養子に迎え入れられ、娘米子と結婚します。これによって、新政府がやっきになって探していた新選組元隊士「永倉新八」は永久に消え去りました。

明治8年、養父・松伯が亡くなると、新八は家督を相続し、名を「義衛」と改めました。
この頃になると人々は維新戦争の凄まじさを忘れ去り、幕府の恩恵を受けた元武士たちまでもが徳川家を罵る、そんな世の中になりつつありました。

「昔、武士には意地があった。幕府に仕えている誇りがあった。近藤さんや新選組の仲間は、俺と形は違えど命をかけて幕府に忠誠を誓ったのに。それが今はどうだ。皆自分を守るために、武士の心までも捨ててしまったのか」

仲間が死んだ今、唯一生き残っている自分だけでも、新選組隊士として形を残し、生きる意味を見出したい。新八は妻を残し、近藤勇との出発点であり、別れの地となった東京へ旅立ちました。37才の時でした。

かつて近藤勇が処刑された東京の板橋で、新八は明治9年、近藤・土方と新選組隊士の名を刻んだ殉難の碑を建立しました。この碑を建てることで、新八は、新選組の仲間が朝廷の敵ではなく、国のために命を投げ出したこと、武士道を貫いたことを証明したかったのです。

明治15年、44歳の新八は、松前藩のよしみで、月形町に新設された樺戸集治監の剣術師範として招かれました。剣の道を一生の道と決めていた新八にとって、何にもましてやりがいのある仕事でした。

「私の剣が人を生かすために使われるのならば、本望である」

樺戸集治監で6年間にわたって剣術指導をしたのちは、再び上京して牛込や浅草に道場を開き、若者たちに剣術を叩き込みました。

「俺にはやはり剣の道でしか、自分を表現できない」

そう思いながらも、老いとともに穏やかな生活を望むようになった義衛は、明治32年、61才の時、息子夫婦と孫の住む小樽を永住の地と決め、北海道へ戻りました。

静かに余生を送りながらも、度々札幌に出かけては北大の剣道場で学生たちに剣道を教え続け、亡くなる2年前、人生最後の大仕事として、永倉新八の名で小樽新聞に新選組の回想録を連載し、それまで知られていなかった新選組の新事実を発表しました。晩年の穏やかな日々にあっても、その胸のうちは、生き残った者の使命感に駆り立てられ、熱く燃えたぎっていたのです。

生涯剣客の心を忘れず、剣の道を突き進んだ男、永倉新八。

「悔いはない」という最後の言葉を残し、大正4年、小樽の地で77歳の生涯を終えました。永倉新八が新選組にかけた青春の誇りは、亡くなるその瞬間まで、いっぺんのかげりも見せず、色あせることはなかったのです。

(出典:「第四集 ほっかいどう百年物語」中西出版

STVラジオ「ほっかいどう百年物語」
私達の住む北海道は、大きく広がる山林や寒気の厳しい長い冬、流氷の押し寄せる海岸など、厳しい自然条件の中で、先住民族であるアイヌ民族や北方開発を目指す日本人によって拓かれた大地です。その歴史は壮絶な人間ドラマの連続でした。この番組では、21世紀の北海道の指針を探るべく、ロマンに満ちた郷土の歴史をご紹介しています。 毎週日曜 9:00~9:30 放送中。

 

~ ほっかいどう百年物語 ~
第1回【札幌で愛され続ける判官さま】北海道開拓の父・島義勇
第2回【世界地図に名を残した唯一の日本人】探検家・間宮林蔵
第3回【すすきのに遊郭を作った男】2代目開拓使判官・岩村通俊
第4回【北海道の名付け親】探検家 松浦武四郎
第5回【苦難を乗り越えて…】知られざる会津藩士と余市リンゴの物語
第6回【NHK朝ドラ「マッサン」のモデル】日本ウィスキーの父・竹鶴政孝 
第7回【龍馬の意思を受け継いで】北海道に理想郷を求めた甥・坂本直寛
第8回【新たな国を目指して】激動の幕末にロマンを追い求めた榎本武揚
第9回【伊達氏再興のために】北海道伊達市の礎を築いた伊達邦成

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