【市川團十郎:初代の生き様】市川宗家の礎を作った荒事芸の完成

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【市川團十郎:初代の生き様】市川宗家の礎を作った荒事芸の完成

日本を代表する伝統的舞台芸術の一つである江戸歌舞伎。歌舞伎の名門といえば、「成田屋」の屋号を持つ市川宗家です。初代市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)は、江戸歌舞伎界に新たな荒事芸(あらごとげい)を取り入れ、江戸時代に多大な人気を博しました。演技中の力強い「元禄見得(げんろくみえ)」を売り物に歌舞伎役者として活躍する一方、狂言作家としても評判を呼びました。そんな現代まで続く歌舞伎の名門を作った市川團十郎でしたが、その最期は歌舞伎を演じている最中に訪れました。

今回は、初代市川團十郎の魅力とその生涯についてご紹介します。

初代:市川團十郎の素顔

初代市川團十郎は、万治3年(1660)侠客であった父・堀越重蔵の息子として生まれました。歌舞伎役者として人気を博しながら、狂言作家としても才能を発揮した初代團十郎は、それまでの歌舞伎界にない荒事芸を完成させ、江戸歌舞伎の創始者ともいえる存在となります。やがて「東の團十郎」と称された演技は人々を魅了し、現代につづく名門、市川宗家「成田屋」をつくり上げました。

成田山新勝寺と関係があった

成田山新勝寺
市川宗家と縁の深い、成田山新勝寺です。

市川宗家の屋号は「成田屋」です。演目中、絶妙なタイミングで「成田屋ッ!」と観客から声が入るシーンをご存じの方も多いですよね。歌舞伎における屋号の始まりと言われているこの成田屋は、千葉県にある成田山新勝寺に由来しています。
もともと侠客だった父の堀越重蔵が成田山近くの幡谷出身であり、新勝寺とは少なからず縁がありました。そんな新勝寺で子宝に恵まれなかった初代團十郎が子宝祈願をしたところ、見事に後の二代目團十郎となる男の子を授かります。その後、子供がすくすくと成長したことに感謝の気持ちを込め、初代團十郎は舞台で『成田山不動明王』を演じました。こうしたことから、市川宗家の屋号が成田屋になったのです。

市川海老蔵を名乗っていた

初代團十郎は、芸の道に入りたての頃は市川海老蔵を名乗っていました。順を追っていくと、市川海老蔵から市川團十郎へと名乗りが変わります。團十郎へと名乗りを変えたのは延宝3年 (1675)のことでした。過去の日本の歴史において、幼名から元服名、隠居名へと名を変えるのはごく自然なことで、團十郎も座を率いる者、芸を磨く一人の役者として幼名から名跡へと名乗りを変えたのでしょう。

絶大な人気を誇った荒事芸

「象引」の市川團十郎
「象引」の山上源内左衛門を演じる初代團十郎。

江戸時代から現代まで、市川宗家の十八番といえば荒事芸です。荒事は江戸時代、金平浄瑠璃に代表される人形浄瑠璃の一つとして認識されていました。初代團十郎は、歌舞伎にあった「荒武者事」と荒事を融合し、荒事芸として新たな息吹を江戸歌舞伎に吹き込んだのです。初代團十郎が作り出した荒事芸は現代に受け継がれており、代表的な作品として歌舞伎十八番の演目『暫(しばらく)』や『鳴神(なるかみ)』のほか、武蔵坊弁慶が登場する『勧進帳(かんじんちょう)』などがあります。

『金平六条通』坂田金平が当たり役

江戸歌舞伎における荒事は、超人的な霊力やパワーを持って悪者を倒す正義の味方です。勇猛果敢な人物が活躍する荒事芸は江戸の人々から喝采を浴び、初代團十郎は人気を集めました。優美で繊細な芸、和事を好む上方(大阪や京都)とは異なり、江戸は武士を中心とした町です。江戸歌舞伎独自の役柄として力強い芸が好まれやすい土地柄であったことも、評判を高めた一つの要因であったといえるでしょう。

初代團十郎の荒事の当たり役となったのが、『金平六条通(きんぴらろくじょうがよい)』に登場する坂田金平です。坂田金平の名でピンときた方もいるかもしれませんが、金平は鬼退治で有名な実在した人物、頼光四天王の一人である坂田金時の息子です。ただ、息子というのはあくまでも設定。坂田金平は歌舞伎や浄瑠璃に登場する架空の人物であり、初代團十郎は『金平六条通』の中で超人的な活躍をする坂田金平を力強く演じました。

三升屋兵庫の名前でも活躍!

初代團十郎は狂言作家としての顔も持っており、三升屋兵庫(みますやひょうご)の名前で『参会名護屋(さんかいなごや)』などの作品を残しました。『参会名護屋』の一幕は、荒事の歌舞伎十八番の演目『暫』の原型とされており、荒事ならではの悪霊を払う霊力を持つ主人公が登場します。
それまでにない荒事を創作しつつあった役者の初代團十郎が、原本を作る作家を経験することで、荒事芸のさらなる独自性が磨かれていったのです。

非業の死!團十郎の最期

見得を切る市川團十郎の銅像

初代團十郎の最期は、舞台上で腹を刺されるという衝撃的なものでした。人気絶頂の初代團十郎への犯行に及んだのは一人の歌舞伎役者。その動機はいったいなんだったのでしょうか?

『わたまし十二段』上演中に刺殺

元禄17年2月19日(1704年3月24日)、『わたまし十二段』の佐藤忠信役を演じているときに、初代團十郎は悲劇に見舞われます。楽屋から舞台上に上がってきた歌舞伎役者、生島半六(いくしまはんろく)に脇腹を刺されてしまったのです。こうして初代團十郎はその生涯を閉じました。犯行に及んだその動機は、初代團十郎から自分の息子が受けた虐待であったとされています。

半六がいうところの虐待とは、自分の息子だけお菓子がもらえなかったことで、子供好きな初代團十郎は、芝居小屋に集まる子供たちによくお菓子をあげていましたが、半六の息子にだけは、「てめぇは親父にもらいな」と返したそうです。確かに冷たい対応ですが、虐待と呼べる内容ではなく、初代團十郎がこのような態度をとったのも、根本的には半六に原因があったとされています。金銭面や仕事面で援助を受けていたにも関わらず、半六は初代團十郎に迷惑をかけつづけていました。度重なる裏切り行為に初代團十郎も呆れ果てて、子供に冷たい態度をとったとされています。ただし、これらも明確には解明されておらず、事件の真相は現在に至っても不明のままです。

市川宗家の礎を築いた

歌舞伎座

初代市川團十郎が作り出した荒事芸と歌舞伎界の名門中の名門「成田屋」は、江戸時代から現在まで途絶えることなく受け継がれています。演技中に刺されるという不幸な最期を迎えましたが、初代團十郎が考案した元禄見得は、時代が流れた今日においても大勢の歌舞伎ファンを魅了しているのです。

 

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