【木曽義仲と巴御前】源平時代を駆け抜けたベストカップル!

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【木曽義仲と巴御前】源平時代を駆け抜けたベストカップル!

平氏と源氏がぶつかり合った中世最初の内乱「源平合戦」は、6年間におよぶ大規模なものでした。この合戦ではさまざまな人物が挙兵しましたが、その中でも有名なのが信濃の木曽義仲(源義仲)でしょう。
義仲には公私ともにパートナーだった巴御前という女性がいました。戦いの歴史に名を残す女性は珍しいものですが、それを果たした巴とはどのような人物だったのでしょうか。

今回は巴の経歴や人物像、また義仲との関係性や二人の最後についてご紹介します。

木曽義仲に付き従った巴御前

巴御前
菊池容斎によって描かれた巴御前。勇ましい姿ですね。

巴は平安末期から鎌倉初期の女性で、詳しい生没年は不明とされています。まずは彼女の経歴や義仲との関係について見ていきましょう。

義仲とともに戦に挑んだ巴御前

巴は中原兼遠(なかはらのかねとう)の娘で、木曽四天王と呼ばれている樋口兼光や今井兼平の妹でもあります。父の兼遠は信濃の豪族で、勢力争いによって討たれた源義賢の子である木曽義仲を、平家の目を盗んで密かに育てました。つまり巴と義仲は、幼馴染のような状態だったのです。
猛々しい武将の中で育った巴は女性ながらに武勇にすぐれ、源平合戦でも義仲に従って数々の戦功をたてました。特に義仲が源義経らに敗れた際の奮闘は有名です。

『平家物語』と『源平盛衰記』に描かれた!

巴の名前が確認できるのは軍記物語として知られる『平家物語』『源平盛衰記』です。それ以外の一次史料には記載がないため、文学的に脚色された可能性が高いとされています。女武将という点も疑問視されていますが、当時の甲信越地方の武家では女性も戦闘訓練を受けたり平等に財産分与されたりと、巴のような活躍が不可能だったわけではないようです。鎌倉時代に編さんされた『吾妻鏡』では、巴の記述はないものの、越後の城氏の一族である坂額御前(はんがくごぜん)の健闘により、討伐軍が大被害を受けたという一文もみられます。

『源平盛衰記』では義仲の妾となっている巴ですが、兼遠が自身の娘を格下である義仲の妾にするとは考えられないことや、挙兵以前に巴が義仲の子を授かっていることから、もともとは妻(正室)だったのではないかと指摘されています。挙兵に伴い仕方なく側近・側室となり、義仲とともに戦ったと考えると合点がいきます。この二人の関係性については諸説あるため、確実なことはいえませんが、巴が義仲に付き従った女性であり、良きパートナーであったことは確かなようです。

語り継がれる巴御前の人物像

楊洲周延が描いた巴御前
楊洲周延が描いた巴御前です。

兄妹ではなくとも同じ父のもとで育ち共に戦うことになった二人には運命的なものを感じます。戦いの中に生きた巴ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。

『平家物語』で語られる巴御前とは?

『平家物語』での巴は、木曽四天王とともに義仲の平氏討伐に従軍する女武者として描かれています。「強弓精兵、一人当千の兵者なり」と描写され、宇治川の戦いで敗れて落ち延びた義仲につき従い、最後の5騎になっても討たれなかったということから、よほどの強さを誇っていたのでしょう。『平家物語』には、口伝で継がれてきた語り本系と読み物として増補された読み本系の2系統がありますが、読み本系の『延慶本』では、左右から襲いかかってきた敵を両脇で羽交い絞めにして、相手の頭がもげて死んだという記述までみられます。

一体どんな強面の女性なのかと思ってしまいますが、『平家物語』の中には巴の外観についても記されており、「色白く、髪長く、容顔まことに優れたり」という言葉から美しい女性だったことがわかります。

『源平盛衰記』でより一層引き立つ巴

一方の『源平盛衰記』での巴は、倶利伽羅峠の戦いで大将の一人として、横田河原の戦いでは7騎を討ち取って名を挙げたとして、その名前が登場しています。宇治川の戦いでは畠山重忠との一戦も描かれており、重忠から巴の素性を聞かれた半沢六郎がそのすごさを語るくだりもあります。
武勇を誇る女性であるという描写は『平家物語』と変わりありませんが、『源平盛衰記』の方は敵将との戦いや義仲とのやりとりがより詳しく描写されているため、巴の人となりが想像しやすいかもしれません。

義仲の最期と巴の行く末

共に激しい戦いの中に身を置いた義仲と巴ですが、最後は別々の道を歩むことになります。共に戦死する可能性もあったはずですが、そうならなかったところに二人の強い絆を感じます。

巴を落ち延びさせた義仲

木曽義仲
巴を逃し、最期は討ち死にした木曽義仲です。

宇治川の戦いで惨敗した義仲は、落ち延びた後の粟津の戦いで討ち死にします。しかし、この栗津の戦いの前に巴を逃しているのです。『平家物語』では「自分は討ち死にする覚悟だ。最期に女を連れていたと言われるのはよくない。お前は女なのでどこへでも逃げるとよい」と何度も説得し、ようやく納得した巴が最後の奉公として敵将・御田八郎師重の首を切り、東方へ落ち延びています。

『源平盛衰記』でも同じく説得して逃がすシーンがありますが、ここでは「信濃に戻ってこのことを人々に語ってほしい」と、自らの最期を広く語り伝えることで後世を弔ってほしい旨を伝え、それを受け入れた巴が戦場を去る形になっています。

義仲を失った巴のその後

巴御前
91歳まで生き延びたとされる巴御前。

義仲と別れて戦場を去った巴は信濃へと帰ります。『源平盛衰記』によると、源頼朝の召喚により鎌倉へと向かい、斬首されそうになったところを和田義盛に助けられて妻になっています。義盛の死後は越中国石黒で尼になり91歳まで生きたとされますが、義盛の子である義秀の生年からすると成立しないとの見方もあり、真実は定かではありません。

しかし、もし91歳まで生き延びたとしたら、義仲と別れてからの時間はあまりに長いものだったといえます。その期間、巴はどんな思いで過ごしたのか……、そう考えると想像が尽きないですね。

義仲と巴は最高のカップルだった

女性でありながら義仲とともに数々の戦いに身を投じた巴御前。その武勇は軍記物語で克明に描かれ、日本の歴史の中で語り継がれてきました。彼女は歴史に名を残した女傑ですが、義仲とともに颯爽と戦場に現れ、潔く歴史の表舞台から去っていったという点で、不思議なすがすがしさがあります。
夫婦仲が良かったとされる歴史上の人物は他にも多くいますが、戦場にまで付き従ったことを考えると、義仲と巴は歴史上稀に見るカップルだったといえるでしょう。

 

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