【柴田勝家の妻:お市】絶世の美女に待ち受けていた壮絶な最期

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【柴田勝家の妻:お市】絶世の美女に待ち受けていた壮絶な最期

戦国武将の柴田勝家といえば、織田信長の家臣として有名ですよね。勝家は若いころから織田家に仕える重臣でしたが、織田家の後継者として信長ではなく弟の信行(信勝)を擁立しようと画策したため信長と衝突しました。しかし、最終的には許され、信長に仕えています。そんな勝家の妻として生涯を終えたのが「お市の方(おいちのかた)」です。彼女は信長の妹としても有名で、戦国一の美女といわれています。

今回は、お市の生まれや勝家に嫁ぐまでの経緯、また二人の最期についてご紹介します。

織田信長の妹:お市の方

お市の方
絶世の美女であり、信長の妹として知られるお市の肖像画です。

勝家の正室となるお市ですが、もともとは浅井長政に嫁いでいました。一体どのような経緯で長政の妻となったのでしょうか。

絶世の美女として知られる

通説では父が織田信秀、母が土田御前で、その五女と伝えられています。兄の信長とは13歳離れていたようです。
江戸時代の『織田系図』には信長の従兄弟・織田広良(與康)の娘との記載があり、他にも信長の叔父・織田信光の娘という説もあるなど、どれが真実かは定かではありません。その前半生についてはほとんど記録がないため、詳細は不明とされています。
「戦国一の美女」と絶賛される彼女は、37歳の時点で22~23歳に見えるほど美しく、また聡明だったそうです。

織田家のために浅井長政へ嫁ぐ

浅井長政
お市が初めに嫁いだ浅井長政です。

お市は、永禄10年(1567)ごろ、美濃福束城主の市橋長利を介して浅井長政に嫁ぎました。これにより織田家と浅井家は同盟を結ぶこととなります。長政はすでに主家の六角家臣・平井定武の娘と婚約していましたが、お市との結婚により破談になったようです。
しかし、この同盟は長くは続きませんでした。元亀元年(1570)浅井氏と懇意だった朝倉義景を義兄・信長が攻撃したため、両家の仲は断絶してしまったのです。
兄と夫が対立するという苦しい状況でしたが、それでも長政とお市の夫婦仲は良好だったようです。二人の間に生まれた3人の娘「茶々」「初」「江(江与)」は、その後「浅井三姉妹」として日本史上に名を刻むこととなります。

再婚相手は柴田勝家!その背景とは?

柴田勝家
お市の再婚相手、柴田勝家です。

戦局が刻々と変わる中、お市も変化を余儀なくされます。夫婦仲も良く子供にも恵まれたお市でしたが、夫の死を経て二度目の政略結婚をすることになるのです。

長政の死後、娘たちと織田家に身を寄せる

織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の戦いとして知られる「姉川の戦い」が勃発すると、天正元年(1573)浅井氏の居城だった小谷城が陥落します。この城は堅固な山城として有名でしたが、4年ものあいだ信長に攻められついに落城してしまったのです。信長との戦いに敗れた長政とその父・久政は自害し、お市と3人の娘は救出され織田家に引き取られることになりました。

信長の許しを得たお市は、清洲城で庇護を受けながら三姉妹とともに平穏に暮らします。この時の信長は彼女らに厚い待遇で、贅沢をさせていたといいます。夫を失った悲しみがあったとはいえ、お市にとっては安堵できる環境だったことでしょう。彼女と娘たちのこのような暮らしは9年間続きました。

清洲会議で決まった勝家との結婚

そんなお市の状況が変わったのは、信長が亡くなった後の天正10年(1582)のことでした。織田氏の跡継ぎや領地再分配に関する話し合い「清洲会議」の場で、お市の再婚が決まったのです。
従来の説では神戸信孝の仲介だとされてきましたが、現在では羽柴秀吉による作戦だったとも考えられています。「織田家を乗っ取るような野心はない」ということを証明するため、重臣の勝家に信長の妹を嫁がせたということです。秀吉はその他にも、勝家の要望した長浜城を譲ったり、北近江の割譲に同意したりしています。
二人の婚儀は、「本能寺の変」のわずか4カ月後に行われました。こうしてお市は、2度目の結婚を果たしたのです。

勝家とお市の最期

勝家とお市
喜多川歌麿によって描かれた勝家とお市(小谷の方)です。

戦国の世に生まれた女性としての宿命か、お市は波乱万丈な人生を送りました。彼女は夫とともに壮絶な最期を遂げることとなります。

自害で果てた2人の夫婦仲

秀吉と対立した勝家は、天正11年(1583)の「賤ヶ岳の戦い」で敗北し、越前北ノ庄城内で自害しました。このとき勝家はお市に逃げるよう告げましたが、彼女は娘のみ逃がし、自身は夫と自害する道を選択したのです。このような決断をしたのは秀吉を嫌っていたからという説もありますが、25歳差でありながら夫婦仲が良かったことを考えると、夫と添い遂げたいという気持ちがあったのかもしれません。『毛利家文書』や秀吉の書状によると、その最期は壮絶なものだったようです。
二人の辞世の句は、お市の句に対して勝家が返句する形で詠まれています。

お市
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」
(夏の夜のほととぎすの鳴き声が、別れの悲しさを誘っているように聞こえる)

勝家
「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
(夏の夜のように短くはかない私の名を、のちの夜までも伝えてくれよ、山ほととぎす)

残された娘たちは?

お市は秀吉に直筆の書状を送り、3人の娘の身柄を保護するよう求めました。これは浅井と織田の血を絶やさぬようにと考えての行動だったようです。

茶々(淀殿)は秀吉の側室となって秀頼を産み、夫の死後に豊臣家を掌握しました。しかし徳川家康と対立し「大坂夏の陣」で敗北、そこで自害したといわれています。
初(常高院)は京極高次の正室になりましたが、夫に先立たれた後は出家して常高院を名乗りました。「大坂の陣」では、豊臣と徳川の関係性を改善しようと豊臣方の使者として奔走するなど活躍したようです。
江(崇源院)は、秀吉の養子・秀勝と結婚した後、徳川秀忠の正室として将軍家に嫁ぎました。姉二人は子孫を残せませんでしたが、江は3代将軍・家光をはじめとして多くの子をもうけ、その血筋は現在の皇室まで続いています。

戦国一といわれた悲劇の美女

お市の像
現在の福井県、柴田神社にあるお市像です。

生涯で2度結婚するも、自害という悲しい結末を迎えた絶世の美女、お市。夫が不幸に見舞われていることもあり「傾国の美女(国の存立を危うくするほどの美女)」と形容されることもあります。
しかし、お市も望んでその道を選んだわけではなく、戦国の抗えない宿命の中を生き抜いていったのでしょう。そして、彼女の娘たちもまた、多くの波乱に満ちた人生を送ることになりました。その血統が今も受け継がれていることを思うと、血筋を絶やさぬようにと願ったお市の想いは届いたといえるかもしれません。

 

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