【英傑に仕えた軍師:黒田官兵衛】その功績と人物像

未分類
【英傑に仕えた軍師:黒田官兵衛】その功績と人物像

戦国時代、有力武将の台頭の裏には軍師たちの暗躍がありました。その中でも特に有名なのが黒田孝高(くろだよしたか)でしょう。一般的には「官兵衛」「如水」の名で知られています。
彼は織田信長や豊臣秀吉らに重用され、後世においては竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価されました。官兵衛がどのような活躍をしたのか、功績や人物像なども併せてご紹介します。

生まれから播磨での活躍

軍師として活躍した官兵衛は、幼い頃から文武両道な人物でした。また、英傑に仕える以前にも戦で功績を残しています。

播磨国に生まれる

官兵衛が入城した姫路城。現在は国宝でユネスコ世界文化遺産にも登録されています。

官兵衛は天文15年(1546)、黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国で生まれました。黒田氏は祖父の代から播磨で権力をもつ赤松家の分家・小寺氏に仕えており、祖父は能力を高く買われ姫路城主に、父は小寺政職(まさもと)の養女と結婚しています。
幼い頃の官兵衛は和歌や連歌が好きでしたが、僧侶の説得もありその道を断念。父と同じく政職の近くに仕え、その翌年には初陣を飾りました。永禄10年(1567)頃には家督と家老職を継承し、政職の姪にあたる櫛橋伊定(くしはし・これさだ)の娘・光(てる)と結婚して姫路城主になっています。

青山・土器山の戦いでの奇襲

永禄12年(1569)青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)が起こります。 発端は長く対立関係にあった赤松宗家の当主・赤松義祐と龍野赤松氏の赤松政秀による政争でした。足利義昭や信長に取り入って支援を得た政秀は、義祐に味方した小寺政職の配下である姫路城に兵を差し向けます。赤松政秀軍は約3000人の兵力、それに対し姫路城主の官兵衛率いる軍勢はわずか約300人でしたが、官兵衛は奇襲をかけこの難局を乗り越えます。翌月には政秀側の夜襲により窮地に陥りますが、援軍によりなんとか危機を回避。しかし、このまま戦いが長引けば勝ち目はないと判断した官兵衛は敢えて体力の回復していない兵に出撃命令を出して敵を強襲、赤松政秀軍は予想外の攻撃に混乱して敗走しました。

英傑のもとで暗躍!

小寺家家臣だった官兵衛は、やがて天下人に重用されるようになります。その活躍や功績はどのようなものだったのでしょうか。

信長に臣従する

円徳寺蔵の岐阜城図。官兵衛は岐阜城で信長に謁見し、活躍の幅を広げていきました。

このころの小寺家は、西には毛利家、東には赤松家を通じて播磨支配を進めていた織田家という脅威がありました。どちらかにつくか評定したところ、重臣たちの中で官兵衛だけが織田家を支持します。結果的に臣従が決まったものの、誰も信長のもとに行きたがらず、官兵衛自身がこの役を引き受けることになりました。
秀吉の取り次ぎにより信長に謁見した官兵衛は、播磨の情勢などについて聞かれ意見を述べます。官兵衛の能力を認めた信長は、彼を気に入って名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を授けました。

秀吉への献策と官兵衛の活躍

その後、織田家臣となった官兵衛は、秀吉の与力として多くの活躍をしました。このころ中国方面の軍事司令を任されていた秀吉は、播磨平定後に毛利家を討つべく備中高松城を目指します。この城は沼地に囲まれ攻略が困難でしたが、官兵衛は水没させるという前代未聞の水攻めを進言し成功させました。
また本能寺の変で信長が非業の死を遂げたことを知った際は、秀吉に対して直ちに毛利家との和睦をまとめて明智光秀を討つことを進言。この「中国大返し」と呼ばれる行軍によって信長の仇を討ったことが、秀吉の天下人への第一歩となりました。

12万石の豊前国主となる

九州平定後の天正15年(1587)官兵衛は豊前国の中の約12万石を与えられ、中津城を築城し始めました。その間もさまざまな一揆や反乱がおこり、嫡男の長政とともに鎮圧のために尽力します。
やがて中津城が完成すると長政に家督を継承。中津城は長政に任せ、自身は伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点として秀吉に仕え続けました。

殉死を禁じた最期

秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起こります。長政は豊臣恩顧の大名を家康方に引き込んで西軍を敗退させ、この功績により豊前国中津12万石から筑前国名島52万石に大幅に増加されました。官兵衛にも勲功恩賞や領地加増が提示されますが、彼はこれを辞退し政治から離れて隠居生活を送ります。
最期は京都伏見藩邸で病死し、その際には家臣の殉死を禁止したといわれています。

官兵衛の人物像とは

英傑のもとで暗躍した官兵衛ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。彼の逸話をいくつかご紹介します。

キリシタン大名だった

秀吉によるバテレン追放令(吉利支丹伴天連追放令)です。

官兵衛はキリシタン大名としても知られており、ドン・シメオンという洗礼名をもっています。秀吉は天正15年(1587)に「バテレン追放令」を出しましたが、官兵衛はそれでも信仰を貫きました。キリスト教に関してたびたび対立したものの、秀吉は官兵衛を追放することなく重用し続けています。
官兵衛はのちに出家して「如水」とも名乗っており、葬儀はキリスト教式と仏式教の両方で行われました。

築城の名手として知られる

優れた調略で知られる官兵衛ですが、築城の名手という側面もありました。居住した妻鹿城、中津城、福岡城のほかにも、姫路城、大坂城、讃岐高松城、石垣山城、名護屋城、広島城など主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行っています。同じく築城の名手として知られる加藤清正は「自分の城は3~4日で落城するが、福岡城は30~40日は落ちない」と官兵衛の腕を賞賛しています。

秀吉もその智謀を恐れていた?

本能寺の変が起こった際、官兵衛は秀吉に「光秀が裏切ったことで天下の道が開けた」と献策しましたが、秀吉はこれ以降、官兵衛を恐れるようになったといいます。
『名将言行録』によれば、秀吉が家臣に「自分の次に天下を治めるのは誰か」と尋ねたところ、家臣らは徳川家康や前田利家の名前を挙げました。しかし秀吉は官兵衛の名を出し「奴に100万石を与えたら途端に天下を奪うだろう」と言ったのです。これを聞いた官兵衛は「我家の禍なり」と、剃髪して如水を名乗ったといわれます。

”両兵衛”として知られる竹中半兵衛との絆

禅幢寺所蔵の竹中半兵衛(竹中重治)の肖像画です。

天正6年(1578)小寺家と信長の間を取り次いでいた戦国武将・荒木村重が信長に反旗を翻し、有岡城の戦いが勃発します。官兵衛は説得の使者として荒木のもとに向かいますが、捕縛され地下牢に監禁されてしまいました。
信長は官兵衛が裏切ったと考えて、人質になっていた長政を殺すよう命令します。この役目を買って出た半兵衛は、官兵衛が裏切るなどありえないと信じ、命がけで長政を守りました。
約1年後に解放されたとき半兵衛はすでに亡くなっていましたが、官兵衛は心から感謝したといわれています。

晩年は連歌や茶の湯もたしなんだ官兵衛

天才軍師といわれ智謀や調略で活躍した官兵衛ですが、晩年は子供時代に好きだった連歌や茶の湯を楽しんだようです。連歌の大家・細川幽斎と交流を深め、茶道もたしなむようになりました。政治を離れた官兵衛は心穏やかな晩年を過ごしたといえるでしょう。

 


大河ドラマ「軍師官兵衛」
放送日時:2019年10月14日(月)放送スタート 月-金 朝8:00~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/kanbee/


 

<関連記事>
【意外に多い?】官兵衛、大友宗麟…戦国時代の有名なキリシタン大名たち
【父・官兵衛にも劣らぬ活躍】東軍一番の功労者だった黒田長政
【黒田官兵衛の家臣】長政の元でも活躍した黒田八虎とは?

Visited 1 times, 1 visit(s) today
READ  【明治維新とは?】それは多大な犠牲を払った近代日本の「革命」だった

コメント

タイトルとURLをコピーしました